インバウンドに力を入れるというのはつまり、自国で経済を成立できていないという事

初めまして

melloと申します

 

今回のテーマは『インバウンド』です

 

結果だけ知りたい方向けに結論を先に書かせて頂きます

 

円安だからと外国人が来日してくれている事に味を占めて、自国内での経済成長を蔑ろにして良い訳ではありません

 

内容が気になった方は引き続きご覧ください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、今回は円安に伴い賑わいを見せているインバウンドについてです

昨今は、他通貨に比べて格段の通貨安を見せている円のおかげで、外国人観光客が増えています

そもそも、観光という物はその土地自体に魅力が無いと成立しません

外国人観光客数ランキングで何年も連続で一位のフランスは、歴史も古い為に歴史的建築物や宗教建築、及び戦争などの足跡や美術品なども数多く存在しており、食事も美味い物が多いと、観光先として最適な国です

www.globalnote.jp

私自身は、以前の記事でも書いています通り、基本的には旅行や観光という趣味は建設的ではないと考えています

melloblog.hatenadiary.com

生産的な物ではなく、あくまで個人の楽しみや趣味として存在している物と理解しております

であるならば、私も元ジャンヌダルクガチ勢として

一度はジャンヌが生まれ育ったフランスのドンレミ村や、シャルル7世が戴冠したランスのノートルダム大聖堂や、ジャンヌの二つ名であるオルレアンの乙女の名前の元になったサン・ルー砦などを見に行きたいという欲求はあります

melloblog.hatenadiary.com

ですが、実際問題、観光・旅行という行為は、自分自身の経済的余裕と時間的余裕が有って初めて出来るコスパの悪い趣味と言えます

 

つまり、観光というのは、訪れる外国人にとって魅力的な国・場所でなければなりません

日本という国は、歴史は古く、世界的に見ても特異な建築物・民族が住む場所として、世界中から魅力的に思って貰っています

観光立国として成立できるだけのポテンシャルはあると考えられます

ただし、日本の国内には、日本人向けの環境しかありませんし、外国人が来訪する事を想定していない場所が数多くあります

また、日本は家主が空き巣を撃退したら過剰防衛として損害賠償を請求されたりするくらい『悪意を持った』人物に対する法律も整っておりません

外国人の中には、日本の歴史や文化や伝統を理解せぬまま来日して、犯罪(本人に悪気が無い場合もある)を犯して帰国する人間も居ます

 

そもそも、国策として『観光に力を入れる』という事はつまり、自国内で経済を回す事が出来ないと吐露している事とも言えます

自国内で経済が回るのであれば、わざわざ観光で外国から人を呼んで持て成して外貨を稼ぐ理由は無いからです

わざわざ外国から人を呼ぶリスクを自ら犯すのは愚の骨頂と言えます

日本に来日してくれる人が『良い人』ばかりとは限りませんから

自国内にて好景気であったバブル期なんてほとんど外国人観光客に頼った経済ではありませんでした

honkawa2.sakura.ne.jp

日本はGDP世界4位(昨年ドイツに抜かれた)と先進国面をしていますが、実態としては新興国とされる外国にすら「日本は安い」という印象を持たれているのです

円安だからと外国人が来日してくれている事に味を占めて、自国内での経済成長を蔑ろにして良い訳ではありません

というお話でした

『天才』という言葉が軽んじられている

初めまして

melloと申します

 

今回のテーマは『天才』です

 

結果だけ知りたい方向けに結論を先に書かせて頂きます

 

人を評する時、簡単に『天才』と片付けてしまうのは如何な物かと考えます

 

内容が気になった方は引き続きご覧ください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、今回は天才という言葉の重みに関してです

個人による情報発信やエンターテイメントの創造が容易になった昨今、物語として多くの『天才』が創造されて来ました

そもそも天才という言葉を定義しましょう

ja.wikipedia.org

wikiに依れば、天才とは天性の才能…つまり、特別に天(神)から才を賜ったものとされています

この定義に依ればつまり、天才は努力を必要としないという事になります

これは、ともすれば非常に失礼な事にも成り得ます

自分は対して努力もしない内から「あいつは天才だ」と言うのは、あまりに無礼な言葉となります

非常な労力をかけて、多大な努力を重ねて、精神を蝕む程神経を擦り減らして、能力を手に入れた人物に対して、世間は簡単に「天才だ」と評します

単純に何の努力もせずに、たまたま天(神)から気紛れに才を与えられた者(そんな人物が居るのか甚だ疑問ではありますが)と、努力によって能力を得た者を同一視しているのです

 

確かに、他者を評論する時、「彼は天才だ」と評するのは簡単です

能力が高い人物を一纏めにして天才という事にすれば、彼の人物を深く理解している様に聞こえます

ですが、実際は当該人物がどんな努力を重ねたのか?どんな心労を耐え抜いたのか?などはあまり話題にはなりません

言ってみれば他人を理解する事を放棄している様な物なのです

私は個人的には、人は他人を完全に理解する事は不可能であるという考えの人間ではありますが

melloblog.hatenadiary.com

それでも、他人がどれほど努力し、どんな心境であったかを慮る事は出来ますし、また、他人を評する以上そうするべきとも思います

 

天才という言葉で簡単に思い浮かぶ人物といえば、発明王トーマス・アルバ・エジソンです

彼の名言の中に『天才とは1%の閃きと99%の努力である』という言葉があります

この言葉は、一見して天才と凡人は1%しか違わない人間であるという風な、どちらかと言えば凡人に優しい言葉の様にも聞こえます

ただし、エジソン自身はそういう意味合いで言った訳ではないらしいです

本当の意味としては『99%の努力は誰でも出来る。ただし、凡人は残りの1%をどうやっても閃く事はない。言い換えれば、1%の閃きが無い人物には努力をする価値は無い。』という、凡人を切り捨てる意味合いなのです

 

また、似た様な事例が、我が国最高額紙幣に描かれている福沢諭吉の名言にもあります

『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』

この言葉も、一見して「人は皆、平等なんだよ」という様な意味合いに聞こえますが、実際は違う意味があります

つまり「天が人を造る時に上下をつけていないのに、現実世界では上下が明確に存在している。それは、その個人個人が生まれてから行ってきた努力の差である」という意味合いです

所謂、昨今良く言われる『自己責任論』です

学校の成績が悪いのは勉強を怠ったからであるし、身体が貧弱なのは身体の鍛錬を怠ったからである、と断じているのです

 

この様に、歴史上の偉人とされる多くが、天から与えられた才のみで能力が発揮される事はないと断じています

人を評する時、簡単に『天才』と片付けてしまうのは如何な物かと考えます

というお話でした

川勝知事の発言を物凄く好意的に見てみると、そんなに悪い事を言っている訳ではない

初めまして

melloと申します

 

今回のテーマは『言葉の受け取り方』です

 

結果だけ知りたい方向けに結論を先に書かせて頂きます

 

やはり、政治家に求められる能力は倫理観であり、有権者からの信頼感である

 

内容が気になった方は引き続きご覧ください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、今回は静岡県知事である、川勝平太知事の問題発言についてです

本問題発言は、今年静岡県庁へ入庁した新入職員への訓示での発言です

本問題発言の原文は以下の通りです

『野菜を売ったり、牛の世話をしたり、ものを作ったりということと違い、みなさまは頭脳・知性の高い人たち…』

この発言に「野菜を売ったり、牛の世話をしたり、ものを作っている人達は知性が低いという事か」と職業差別なのではないかという非難が集まっています

 

まぁ、ニュートラルに判断して、失言であるのは間違いありません

ちなみに私は個人的には、川勝知事はリニア関係での行動を見る限り、日本の国益を損なう売国奴であると考えていますし、辞任は静岡県民はもとより、日本国民として喜ばしい事と考えています

ただし、今回は川勝知事の失言に対して「本当に職業差別なのか?」という、逆の立場から考える為に、物凄く好意的に見てみます

『野菜を売ったり、牛の世話をしたり、ものを作っている人達』

という括りは何に属するか?

 

一次産業とは、自然から直接に富を取得する業種です(農業・林業・漁業など)

二次産業とは、原材料を人工的に加工して富を取得する業種です(製造業・建設業・電気ガス業など)

三次産業とは、一次・二次に分類されない方法によって富を取得する業種です(小売り業・サービス業など)

では川勝知事の発言で登場した人達はどうでしょう?

 

・野菜を売る人

これは一次産業の様に思えて、売る人ですから三次産業の小売りに当たります

・牛の世話をする人

これは酪農の事ですから文句なしに一次産業です

・ものを作る人

作るという事は加工している訳ですから二次産業という事になります

 

つまり、整理すると川勝知事はマスコミなどが騒いでいる『一次産業への職業差別』を行った訳ではなく、一次・二次・三次全ての職業を差別した訳です

そして『全てを差別する』というのは言葉として正しくありません

それを言うのであれば『選民思想』の方が正しいと思われます

 

この訓示を正しく読み解くとこうなります

「自ら富を生産している職業の方達は、昨日と全く同じ仕事をしている事が立派な事であるが、国民・県民に寄り添う事が仕事の我々公僕は、ただ漫然と昨日と同じ仕事をしていて良い訳ではない。精一杯頭を捻って国民・県民に奉公する事こそが、我々公僕の仕事である」

という事です

こう聞けば、我々一般庶民からしたら悪い気はしません

つまり、発言内容を正しく読み解けば、川勝知事は別にそんなに悪い事を言っている訳ではないのです

 

ではなぜ、本発言がこれほど取り沙汰され、糾弾されているのか?

その要因の一つはマスコミが馬鹿騒ぎしている事もありますが、本当の原因は有権者からの不信感です

普段から、川勝知事は有権者から「職業差別してそう」という印象を与えていたから、こんな揚げ足取りの様な問題で、ここまで問題が大きくなった物と思われます

やはり、以前にも記事にしましたが、政治家に最も求められる能力は倫理観であり、その倫理観を有権者に信じて貰えていなかった事が発端となったのではないか?と考えます

melloblog.hatenadiary.com

というお話でした

天候の好みは人それぞれ

初めまして

melloと申します

 

今回のテーマは『天候の好み』です

 

結果だけ知りたい方向けに結論を先に書かせて頂きます

 

天候というのは自然の営みであり、個人にはどうする事も出来ない

だったら、暑い・寒い・晴れ・雨・強風・無風そのものを愛する方が良い

 

内容が気になった方は引き続きご覧ください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、今回は天候についてです

皆さんは一年の中で、どの季節が好きでしょうか?

暑いのが嫌いだから冬

寒いのが嫌いだから夏

花粉症が酷いから春秋が嫌い

など色々な意見があると思います

私は幸い花粉症を発症した事がありませんので、春秋が辛いと感じた事はありませんし、バイクや自転車に乗っている時でなければ、冬の寒さが辛く感じた時はありません

ただ、学生時代の時分は臭いとイジメられた時期がありましたので、夏が嫌いではありました

melloblog.hatenadiary.com

ただ、それも学生時代や若い時期の話であり、最近の様に人と距離を取った生活をしていたり、人と接する事がある時でも自身の権利の侵害を感じたら然るべき所へ訴える様になってからは、特別に夏が嫌いという訳でも無くなりました

 

思うに、人が思う「この季節が嫌い」という感情は、自分都合であると考えます

私の様に、夏は汗をかくから嫌いというのも自分都合ですし、花粉症だから花粉が多く舞う春秋が嫌いというのも自分都合です

自然に対して不満を言っても仕方がありません

後は自分がその自然を好きになれるかどうかというお話です

私は自動車も好きですし、オートバイも好きですし、ロード(クロスも)バイクも好きです

特にオートバイやロードバイクの場合は、自然の天候に環境が大きく左右される物ですが、私はそういう物だと受け入れていますし、そういう自然を愛してもいます

夏であれば暑くなり、水分補給は必須になりますし

冬であれば寒くなり、防寒装備は必須になりますし

雨であれば、視界も悪くなったり、路面のミューが減って普段の運転よりも少し気を付けなければなりません

ですがそういった物は事前に分かっている事です

私は、事前に分かっている事に対して、対処しなかった自分が悪いと考えます

 

大阪出身の数学者であり大学教授である偉人、岡潔氏の言葉にこんな物があります

『菫はただ菫の様に咲けば良い』

この言葉には、色々な解釈が出来ますし、受け取り方も様々です

一見して、『蛙の子は蛙』と言って努力を無駄だと切り捨てている様にも見えます

ただし、蛙の子が蛙である事を納得し、満足し、幸福にその一生を終えるのだとしたら、それは他人がとやかく言おうと幸福なのであって、それ以上の幸福は無いのです

つまり、自分の心持ち次第で幸福にも不幸にもなるのであれば、誰もが幸福になり得るという希望に満ちた言葉の様にも聞こえます

天候というのは大自然の営みであり、個人にはどうする事も出来ません

だったら、暑い・寒い・晴れ・雨・強風・無風そのものを愛する方が自身の幸福に繋がるのではないかと考えます

というお話でした

デジタルデトックスと生物の進化について

初めまして

melloと申します

 

今回のテーマは『デジタルデトックス』です

 

結果だけ知りたい方向けに結論を先に書かせて頂きます

 

人間を含む生物は、そんなに直ぐに環境の変化に適応は出来ない

 

内容が気になった方は引き続きご覧ください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、今回はデジタルデトックスについてです

デジタルデトックスという言葉をご存じでしょうか?

ja.wikipedia.org

世界的なSNSを生んだ米国や、人権意識の高い欧州などの国では、昨今のSNSに対する依存に対して強い警戒感を持っています

世界的に見て、依存症や中毒というのは早期に問題化される傾向があります

それは、病症として認知する事でそれに対する治療を早期に始められ、またそのノウハウを得ておく事にメリットを感じているからです

日本は『人に迷惑をかけなければ何をしても自由』という考え方と『即座に目に見えて健康に悪い』物以外は自由にさせるという考え方が一般的です

実際、どちらが正しいのかというのは人の感じ方による物と思われます

本当に健康に悪いものであっても、その人物の幸福度の向上に寄与しつつ、人類の寿命を鑑みるとそれほど影響が無い(個体差は有るが)物というのもあると思われます

そうなって来ると、タバコや酒や麻薬と言った現代では明らかに健康に被害があると考えられている物ですら、本当に禁止する事が良い事なのかすら分かりません

 

さて、ではデジタルデトックスはどうでしょう?

現代社会はデジタル機器に溢れかえっています

それこそ、日常生活に於いてデジタル機器に触れない日は無い程です

それもそのはずで、本当に一部の例外を除いて、一般的にはアナログな物よりもデジタルな物の方が有用である場合が殆どだからです

誰が今更数字の計算にソロバンを使うでしょうか?

誰が今更洗濯に洗濯板での手洗いをするでしょうか?

誰が今更掃除に掃除機でなく雑巾がけをするでしょうか?

日常生活に於いて、自分の身の回りはデジタル機器に支配されています

だからこそ、今、デジタルデトックスという考え方も出てきますし、アーミッシュといった昔の生活をしている人というのに注目が集まったりもします

melloblog.hatenadiary.com

アーミッシュは、キリスト教の中でもプロテスタントと呼ばれる聖書至上主義な人達の中でも、聖書の中の事以外を禁止するという特異な人達です

 

また、キリスト教の始祖であるユダヤ教にも似た様な宗派の人達が居ます(ユダヤ教の人達からしたら、自分達の方が源流なんだから『似た様な』と表現したら怒るかもしれませんが)

そういった人達を『ハシディック』と言います

ハシディックというのは超正統派と呼ばれ、ユダヤ教の聖書(キリスト教旧約聖書)の中でもさらにトーラー(Toral)と呼ばれる、最初の5つの書(創世記・出エジプト記レビ記民数記申命記)を厳格に守る人々を指します

ユダヤ教にはシャバット(安息日)と呼ばれる労働を禁止する日があります

これは聖書に『神は6日間で天地を創造し7日目に休んだ』と記載がある為です

ユダヤ教では、このシャバットを土曜日と定めております

また、ユダヤ教の日付の概念は『日没』と『日出』ですから、金曜日の日没から土曜日の日没までをシャバットとします(約25時間)

ところで、シャバットで禁止される『労働』とは何が当たるのかという事ですが、これが実に多岐に渡ります

料理や、車の運転、電気をつける行為等も含まれます

料理が禁止されますから、当然ですがシャバットまでに一日分の食料を確保しておかなければなりませんし

車の運転が禁止されていますから、当然ですが遠距離の移動は不可能です

電気をつける(古くは火をつける行為が現代版に変化した物)行為が禁止されていますから、テレビやパソコンやスマホももちろん禁止です

近くにいる家族とのコミュニケーションや聖書に対するディスカッションなどに時間が使われます

 

さて、ここまで来ればお分かり頂けますでしょうが、デジタルデトックスというのは、何も新しいトピックスではありません

古より、新しい物にどっぷり漬かるのではなく、伝統通りの生活をする事を良しとする考え方は存在しておりました

アジア的に言うと、瞑想や座禅やヴィパッサナーなどが当たるかも知れません

シャバット的には25時間ですが、初めは数時間でも良いかもしれません

デジタル機器に触れず、自分や自分の大切な人や物に向き合う時間と言うものが人類には大切なのかもしれません

確かに、機器に関して、表面的にメリットデメリットやスペックなどで考えてみると、デジタルが全てに於いて優れている様に思えるかもしれません

ですが、人類を含む生物の身体というのは、そんなに直ぐに環境に適応する事は出来ません

melloblog.hatenadiary.com

生物の進化とは、数百年・数千年、下手をすると数万年という規模の年月を経て漸く行う物です

デジタル機器が誕生して数十年程度で簡単には適応出来るはずも無いのです

というお話でした

新NISAが始まったから投資を始めるというのは投資判断としては間違っている

初めまして

melloと申します

 

今回のテーマは『投資タイミング』です

 

結果だけ知りたい方向けに結論を先に書かせて頂きます

 

法律や道具やサービスなどに使われるのではなく使う様にしなければならない

 

内容が気になった方は引き続きご覧ください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、今回は投資タイミングについてです

これまで散々似たトピックスの内容の記事は書きましたが、今回は新NISAという誰にでも聞こえが良い開始理由がある事について書いていきます

まず、大前提として新NISAは良い制度です

それは間違いありません

そして、新NISAで買うべき商品として紹介されている商品である『S&P500』や『オルカン』も素晴らしい商品です

それも間違いありません

ただし、株式投資という物は、最も正しい商品を最も正しい方法(新NISA)で購入したとしても短期で見ると大損する事があり得るものです

投資という物に免疫が無い人物に対して、いきなり年間360万円もの大金を投じさせるのはメンタル面からみても正しい行いとは言えません

いくら理論武装したとしても、人は目の前の損失を嫌ってしまうものだからです

ですが、投資開始から一切損失を出さずに居る方法なんてものはありません

それが出来るのは神様くらいのものですし、それが出来るなら誰でも大金持ちです

金融的に見て、暴落と暴落を繰り返して、長期で考えると緩やかにでは有るが少し株価は上がっていく物だという事を証明する為には超長期で投資を行う必要があります

遠い未来から見たら、今日投資を始めたのも明日投資を始めたのも同じ様なものです

大事なのは現金比率をルール化する事と、それを長期間愚直に続ける事です

新NISAはあくまで法律上の税優遇策に過ぎません

投資で利益を出す方法とは別物です

新NISAが始まったからと言って、投資開始前から決めていたルールを逸脱したポートフォリオを組んだりするのは間違いと言えます

つまり、『投資で勝つ』という事と、『最も利益が出る方法』というのは別問題なのです

新NISAが始まったからと言って、大急ぎで投資を始める理由はありません

まずは『投資で勝つ』という事を優先すべきですし、そこの判断に税制上の優遇が受けられるからとタイミングを疎かにすべきではありません

 

結果として、新NISAを1月1日(正しくは1月4日が大発会)から全力で投資を行った人は大体が利益が出ているとは思います

しかし、それは『新NISA』のおかげではなく、ただ単に地合いが良かっただけであり、言ってみれば運が良かっただけとも言えます

これから短期で暴落するかも知れませんし、実際問題、日経平均は4万円を突破した後は同じレンジをウロウロしております

同じレンジをウロウロしているとは言っても、今年はもう既に今現在でも年初来で17%も上がっている訳ですから十二分に暴騰していると言えます

 

つまり、今から新NISAを全力で始める人は年始に始めた人とは短期で見れば全然違う結果になる可能性がありますし、超長期で見れば大差はありません

せっかく正しい事をしていたとしても、短期目線で言えば目を覆いたくなる事もあるかもしれません

新NISAはあくまで税優遇制度であります

そういった法律や道具やサービスに使われる人間ではなく、使う人間になる、そういった心づもりで株式投資を始めましょう

というお話でした

 

 

 

 

 

 

日本が再び先進国になれるカギは芸術が握っているかもしれない

初めまして

melloと申します

 

今回のテーマは『芸術・アート』です

 

結果だけ知りたい方向けに結論を先に書かせて頂きます

 

数字や効率だけを追求する事に日本人は慣れていない

 

内容が気になった方は引き続きご覧ください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、今回は芸術・アートに関してです

現在の日本人は、芸術やアートに対して懐疑的な人が多いと思います

学校の美術の授業もまともに受けている人は少ない印象です

なぜそうなったのかはいくつか考えられますが、その一つはピカソなどのキュビズム等ばかりが学校での教育やマスコミも放送で取り上げられて、美術やアートの世界を「何か良く分からない」物にしているからです

そもそも、美術やアートの価値や世界観を知る上ではキリスト教などの宗教系の知識が必要不可欠であります

なぜなら昔の宗教家が、識字率が決して高くない信者に対して見せるように制作される事が多かったからです

そういった信者は普段から聖書や神父の言葉によって、普段からキリスト教系のストーリーを聞かされていますから、絵画によって「○○のシーンだ」と気づく事が出来ます

ただ、日本は建国来、キリスト教に染まった事はありません(一部地域でキリシタンが尊ばれる事がありますが、国の宗教となった事はありません)

なので、キリスト教に対する理解や知識が根本的に抜けていると言えます

西洋に於ける美術というのは、そういった宗教画から写実的な(写真で撮影したような、今現在の何でもない姿を描く)絵画へと変化し、さらに写実絵画から印象絵画(絵の主張が何となくぼんやりしている絵画)や、説明などがなければ理解も難しい抽象画などへと変化していきます

 

現代日本の美術教育は、いきなり抽象画や印象画などを見せて「すごいだろ」という教育になっています

つまり、大本、根本の部分、つまり美術・アートの創成期の部分を丸ごと無視して、いきなり最先端に行こうとしています

ただし、これは美術の教師が悪いのではありません

学校、及びそれを統括する文部科学省が、『美術』に対する理解が足りないせいか、学校教育としての『美術』を重要視しておりません

簡単に言うと、美術の歴史を全て教えるのには授業の時間が余りに足りないのです

だからこそ、子供達が簡単に興味を持ってくれそうな内容ばかりに授業が偏ります

 

では、日本人は美術に向かないのか?と言われればそんな訳がありません

古来から美術・芸術・アートという物は、特別な共産圏などに属していない限りどこにでも存在し得るものであり、取り分け日本という国は世界でも類を見ない歴史を持つ国でありますから、歴史的建造物も多数存在しておりますし、美術品も数多く残っています

また、浮世絵や西洋風日本絵画なども世界的に十二分に評価を受けていますし、日本のカルチャー(文化)として受け入れられている、アニメや漫画というのも、世界的に見れば芸術と捉えられている節がありますし、日本人は幼少期からそんな文化に触れて生きて来ています

そんな国の人間達が芸術に無関心であるのは、何らかの原因があると考えられますし、その何らかの原因を取り除いてあげるだけで、芸術に寛容な国や国民性となれる気がします

 

そもそも、日本という国や国民性は、数字や効率だけを追求する事には慣れていません

日本独自の『切腹』や『判官贔屓』という性質は世界には理解が及ばないものであります

日本人の根幹には情緒があり、インスピレーションによる閃きよりも色濃いものです

数字だけを追い求める事よりも、日本人らしい情緒を中心に据える事により美術大国・芸術大国となる事こそが、日本が再び先進国になれるカギなのかもしれません

というお話でした

『ゴクゴク飲めるお酒』には興味がありません

初めまして

melloと申します

 

今回のテーマは『お酒の価値』です

 

結果だけ知りたい方向けに結論を先に書かせて頂きます

 

お酒でしか得られない物が無い限り、お酒である理由は無い

 

内容が気になった方は引き続きご覧ください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、今回はお酒に関してです

皆さんはお酒は飲まれるでしょうか?

私は日常的には飲まない様にしています

別に意識して休肝日を作らないといけないと気を使っている訳ではありません

そもそもそんなに「飲みたい」とならないだけです

よく、二十歳になりたての大学生当たりがよく言う「チューハイとかジュースみたいなモン」というイキリ言葉がありますが、言ってみれば私も同感です

お酒というのは、アルコールが含有されている飲み物である以上、酒税がかかります

つまり、ジュースとお酒が同価格で売られている場合、我々消費者が支払う金額と企業が得る利益が一緒ではありません

余計に国に税金を支払っている事になります

であるならば、満足度が同じ場合はジュースを飲む方が身体的の事を抜きにしても、健全であると言えます(ジュースを消費するにしても、国は消費税・企業にかかる法人税を得ている訳ですから)

尤も、お酒をゴクゴク飲んで『酔っぱらう』事に価値を見出しているのであれば、無駄ではありません

アルコールによって酔う事を目的としているのであれば、酒税を支払う事は法律の目的に沿っているからです

 

私は『酔っぱらう』事に価値を見出せないので、美味しく飲めるお酒を飲みたいと考えます

戦国大名北条氏康は朝に一杯だけお酒を飲む事を良しとしたという逸話があります

朝にお酒を一杯だけ飲むという事の優れた点は

・朝なので(これから一日の行動を開始するので)深酒になりにくい

・適度な飲酒で(一杯だけと決める事で)行動に勢いが付きやすい

という二点が考えられます

私も、これには同意する所です

ただ、現代社会に於いて、これを実行するのはかなり難しいと考えられます

朝にお酒を飲むという事は、(少しではあっても)酔った状態で仕事をするという事になります

それは現代社会では歓迎される事ではありません

また、仕事をしていない人にとっても、車・バイク・自転車をこれから運転するという時に飲酒をしたのならば、『飲酒運転』となります

 

つまり、お酒は夜に飲む物、という社会常識が出来上がっていると言えます

なので私自身、お酒好きという訳ではありませんから、当然、好きなお酒をたまに飲むという頻度に落ち着きます

そこでタイトルに戻りますが、『ゴクゴク飲めるお酒』という物に興味が沸かないのです

『このお酒で無いと得られない満足感』という物を追い求めますから、クセの無いお酒よりもクセの強いお酒を好みます

銘柄でいうとARDBEG(アードベック)の様に、スモーキーでクセの強いウイスキーなどを良く飲みます

 

「そんな強いお酒を飲んで身体を悪くしそう」と言われる事もありますが、私の中では、そうでなくてはお酒の意味が無いと感じるので、どうしても同じ結論に至ります

つまり、お酒でしか得られない物が無い限り、お酒である理由は無い

というお話でした

綾鷹は画期的ではない

初めまして

melloと申します

 

今回のテーマは『選ばれたのは綾鷹でした』です

 

結果だけ知りたい方向けに結論を先に書かせて頂きます

 

革新的、画期的でなくともムーブメントは生み出せる

 

内容が気になった方は引き続きご覧ください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、今回は綾鷹のTVCMについてです

綾鷹のTVCMと聞いて思い浮かぶのは何でしょう?

「選ばれたのは綾鷹でした」でお馴染みのCMではないでしょうか

ネット民の中でも、あのCMをコラージュする発言(コメント等)は数多く見られます

所謂ネットミームと呼ばれる物ですね

あの現象を作り出せたのならマーケティング的に大成功と言えます

なぜなら、お金を出さずに勝手に他人が自社製品を広告してくれる訳ですから、広告費用を抑える事が出来ます

では、あの「選ばれたのは綾鷹でした」のTVCMは日本コカ・コーラ(日本コカ・コーラは日本国内での販売を請け負う日本法人)が生み出した物なのでしょうか?

答えはNOです

時は1970年代、米国のコカ・コーラは一強の時代でした

そんな中、その他大勢の中のペプシコ社が、一般人に対して目隠しでコカ・コーラペプシコーラを飲ませてどちらが美味しいかを聞くTVCMを作りました

その内容は殆どがペプシコーラを選ぶ物でしたが、それは広告ですからもちろん編集していると思われます

実際は良くて半々、もしかすると9:1の比率の1の部分を強調するものだったのかもしれません

このTVCMの事は『ペプシの挑戦』と呼ばれました

ペプシの挑戦と綾鷹のTVCMには大差はありません

つまり、コカ・コーラ及び日本コカ・コーラは、1970年代に自分達がされた事を、今度は日本の緑茶メーカー、つまりは伊藤園サントリーなどに、そっくりそのまま仕掛けた事になります

 

結果、日本国内に於いて、少なくとも『緑茶』のジャンルに於いては、日本コカ・コーラの広告戦略は大きくハマったと言えます

これは、昨今のGAFAMに代表する『破壊的イノベーション』を用いずに、広告のみで大成功した例と言えます

破壊的イノベーションを生み出す事だけが、ビジネスの成功になる訳ではないのです

革新的、画期的でなくともムーブメントは生み出せるという事の証左なのです

というお話でした

私が宗教について否定的になれないのは、私の中にジャンヌダルクが居るから

初めまして

melloと申します

 

今回のテーマは『ジャンヌダルク』です

 

結果だけ知りたい方向けに結論を先に書かせて頂きます

 

何を信じ、何を好み、何に命を燃やすのか

 

内容が気になった方は引き続きご覧ください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、今回はジャンヌダルクについてです

私は元、ジャンヌダルクガチ勢です

janne da arcというロックバンドも名前から好きになった程です

因みに、jannne da arcというロックバンドの名前の由来は、漫画『新デビルマン』からの引用であり、フランスのジャンヌダルクとは関係が無いようです

そもそも、フランスのジャンヌダルクのフランス語のスペルはjeanne d'Arcと書きます

英語を多用するロックバンドであり、英語が強い学校出身であるyasu(janne da arcのボーカル)が知らないはずが無く、意図して違うスペルにしていると思われます

 

さて、ここからはフランスに実在したジャンヌダルクについて書いていきます

ジャンヌダルクは1412年頃、フランスの東部ドンレミと言う片田舎に生まれ育ちます

因みに、このドンレミという町は現在ではドンレミ・ラ・ピュセルと名前を変えて、観光地化しております

ラ・ピュセルというのは奇跡という意味合いで、明らかにジャンヌダルクの影響で名前が変わった物と思われます

フランスの英雄、オルレアンの乙女、と日本では大人気な彼女ではありますが、世界的に見ればそれほど有名ではありません(当事者であるフランスやイギリスでは知られていますが)

日本人がジャンヌダルクを好むのは、その国民性から来るものが大きいと思われます

判官贔屓という言葉があります

簡単に言うと、弱者に対する同情や哀惜の事であり、負けた側、もしくは劣勢の側に味方したくなる感情の事です

日本人には特にこの傾向が強い国民性と言えます

ジャンヌダルクは、本人曰く、処刑された時に19歳(くらい)と発言しております

13.4歳で「国を救う為」に立ち上がり、数々の戦場に於いて常に最前線に立ち、勝ち抜いた彼女を日本人は尊く思います

また、彼女は20歳になるまで自分は生きられないだろうという事を予見して町(ドンレミ)を出発しています

つまり、あと5~6年程度で自分が死ぬ事が分かっていながら運命に身を委ねたという事になります

 

これほど日本人の心を打つ海外の英雄は少ないと思います

だからこそ、日本に於いて彼女の名声は留まる事を知らず、多くの作品に登場したりオマージュが作られ、今でも愛されているのです

私も例外では無く、ガチ勢であった昔は『ジャンヌダルク』と名が付く物は片っ端から読み・視聴し・プレイ(ゲームなど)しました

女優である、堀北真希有村架純や主演の舞台「ジャンヌ・ダルク」もそれぞれ一回ずつ見ましたし、DVDも購入しました(清原果耶主演のジャンヌ・ダルクは存在を知らなくて見れませんでした)

今現在は、以前ほどのガチ勢と呼べる程の熱量では無くなりました

それは、私自身の金銭感覚の変化と、『ジャンヌダルク』という商標を使っての商売と言うものに少し嫌気がさして来たからです

簡単に言うと、安易に「ジャンヌダルクって言っとけば儲かるだろう」と考えている様に思えてきたからです

堀北真希有村架純主演の舞台にお金を払った事、そのDVDを購入した事、その他ジャンヌダルク製品にお金を払った事、そのものに後悔はありません

好きなものにお金を払う事は良い事だと思うからです

今でも、ジャンヌダルクが好きかと聞かれれば好きと答えます

ですが、以前の様に『ジャンヌダルク』と聞けば、無尽蔵にお金を支払う様な事は無くなったというだけです

私自身が宗教に否定的になれないのは、私の中にジャンヌダルクが居るからという点が強いと思います

ジャンヌダルクが、神を信じ、王太子シャルルをランスにて戴冠させるという目標に命を燃やした様に

私自身が、何を信じ、何を好み、何に命を燃やすのかは、私自身が決めねばなりません

というお話でした

ホームスクール制度の有用性について

初めまして

melloと申します

 

今回のテーマは『ホームスクール制度』です

 

結果だけ知りたい方向けに結論を先に書かせて頂きます

 

ホームスクールはどう考えても非効率的ではあるが、現代人にとって希薄化しつつある家族との繋がりを感じられるのは間違い無い

 

内容が気になった方は引き続きご覧ください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、今回はホームスクール制度についてです

ホームスクールとは、子供が学校で勉学を学ぶのではなく、家族(両親や祖父母)が子供に基本的な教育を施す事です

日本に於いてこの制度は憲法の『教育の義務』により禁止されております

国民に対しては学校にて普通教育を受けさせる義務がありますし、市町村に対しては子供が教育を受ける場、つまり学校を設置する義務があります

教育の義務のメリットは、子供たちに平準化した教育を大量に効率的に施す事が出来るという点に尽きます

逆にホームスクール制度のメリットは

・毎日家族(両親や祖父母)が子供と直に接する事により否が応にも家族の仲が深まる

・各家庭によって必要な、或いは必要な教育を施す事が出来る

という二点にあります

以前、アーミッシュという生活について記事にしました

melloblog.hatenadiary.com

彼らの生活には学校も学校教育も存在しています

ただし、彼らの生活にとって不要である化学や理科を教えない様に、その後の生活に必要な子供への教育というのは場所やコミュニティにとってまちまちです

また、彼らはコミュニティ自体を『大きな家族』と捉えている節があります

だからこそ、隣家の子供が怪我をした時にコミュニティ全体でお金を出し合って医療を受けさせたりもするのです

 

話を戻しまして、ホームスクール制度というのは所謂『新興国』では当たり前でもあります(そもそも教育の概念が無い場所もありますが)それは、学校を設置する資金も無く、子供に普遍的な教育を施す事が出来る教員も存在しないからです

だから当然、社会や理科という教科よりも、生活に直結する語学や数学を重要視しますし、なにより仕事の仕方を教える事を最重要視します

そして何より、子供に教育の成果が出た場合は家族としては例外無く喜んで貰える環境でもあります

現代社会に於いて、子供が古文のテストの結果が良かったというのは殆ど役に立ちません

受験に於いても古文は点数配分が少ない(文系であっても)事はざらですし、その後社会人になった時に一回でも使う事の無い教科でもあります、なによりそもそも家族(両親や祖父母)も大して重要視していませんし理解もしていません

子供がそんな教科を頑張って勉強して良い点を取ったからと言って、家族は喜べるでしょうか?

 

その後の生活に必要な事を教えるという一点に於いては間違い無くホームスクール制度の方が効率的ではあります

ただし、家族の能力に依存する点を考えれば、子供達に受けさせる教育は専門家である教員に任せた方が、大量の子供達に平準化した教育を受けさせられます

 

昨今の学校事情を鑑みるに、多くの子供達が『イジメ』の被害に合い、心に傷を負ったり、最悪の場合は自ら死を選ぶ子供も居ます

ホームスクールであれば、大前提として愛する家族に接する訳ですからイジメが発生する事はありません

社会問題であるイジメという点を考えてもホームスクール制度の有用であると思われます

 

国としての運営を考えた場合、あまねく国民達に平等に教育を受けさせるという事に関しては、学校教育というのは都合が良いかもしれません

ですが、ホームスクールはどう考えても非効率的ではあるが、現代人にとって希薄化しつつある家族との繋がりを感じられるのは間違い無いのです

というお話でした

企業にこそ誠実性は求められる

初めまして

melloと申します

 

今回のテーマは『企業の誠実性』です

 

結果だけ知りたい方向けに結論を先に書かせて頂きます

 

企業は人の集合体、その企業が先だって誠実性を示す必要がある

 

内容が気になった方は引き続きご覧ください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、今回は誠実性についてです

先日、小林製薬という企業が製造している『紅麴商品』が原因と考えられる腎臓不全の患者が数名亡くなり、さらに多くの患者が身体を悪くしたというニュースが出ました

また、その情報が企業内、つまり経営陣に知れ渡ったのは発表の2か月も前だという事で、誠実性の観点から非常に世間の反感を買っています

噂では取引先は200社にも上ると言われ、その中には台湾などの外国にも及ぶと聞きます

もしそうなれば、重大な国際問題となりかねません

憶測で非難する気はありませんが、小林製薬に関しては早急に事件の全貌を国民に報告する義務があると考えます

 

また、先日記事にした証券会社に関しても、最も効率的にポイントを付与される証券会社は、auカブコム証券×au PAYカードであると結論付けましたが、私はメインの証券会社をauカブコム証券にする気はありませんし、多くの人もする気が無いように思われます

melloblog.hatenadiary.com

melloblog.hatenadiary.com

その一因(私はこの理由が強いが)として考えられるのが、au(KDDI)という企業に対する不信感であると思われます

auグループは、以前にもユーザーに対して何の前触れもなく重度の改悪を何度も繰り返している前歴があります

そんな企業に新NISAという、一度開設したら変更するのに多大な労力がかかる物を託したいとは考えません

 

企業に対するイメージというブランド価値は、実際の合理だけで判断出来る物ではありません

今後、小林製薬の対応次第では「小林製薬が関わった商品は買わない・使わない」という忌避感が生まれるかもしれませんし、auグループのサービスもサブとしてしか使わない・利用しないという人が現れるかもしれません

いくら他社より良い商品・良いサービスを提供しても「信用ならない」と評価されれば意味がありません

目の前の小銭を拾う為にその先の重大な富を他者に取られるのはあまりに滑稽であると言えます

企業の大前提として、顧客に信用して貰う事は最も重要なのです

顧客に信用して貰い、愛用して貰う事は、実際の他社との比較以上に重要なのです

企業は人の集合体、その企業が先だって誠実性を示す必要があると考えます

というお話でした

旅行という趣味は建設的ではない

初めまして

melloと申します

 

今回のテーマは『旅行趣味』です

 

結果だけ知りたい方向けに結論を先に書かせて頂きます

 

移動した先に『何か』があるのではなく、移動の過程にこそ旅行の醍醐味はある

 

内容が気になった方は引き続きご覧ください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、今回は旅行についてです

コロナ禍以前に流行った趣味として『旅行』という物があります

EU諸国を巡って、古代の美術品や建築物を鑑賞したり、アジアや中東等に行って珍しい文化に触れたり、という趣味が盛んであった時期があります

『インドに行ったら世界観が変わった』なんて言葉は誰しもが聞いた事があります

ですが、旅行というのはそもそも、何か目新しい物でもなければ、何か建設的・生産的な物でもありません

ただ人が、A地点からB地点に移動したというだけであり、そこで触れた文化というのは『観光客向け』の文化であり、そこに定住する人間が確かに触れて生活している文化ではありません

アニメ好きの人間が全員が全員、聖地巡礼する訳では無い様に(往夫にして『にわかファン』ばかりが聖地巡礼している様に)、実際問題現地に定住して生活している人間からしたら全く別物であるというのは良くある事です

今や、マサイ族ですらスマホを持つ時代です

旅行先に過剰なステレオタイプを求めるのも結構ですが(観光としては)、普通に考えて未だに動物を狩って、それだけで生きている訳ではありません

旅行という趣味は、そういった、旅行先の人間が『私たちはこういう生活をしています』というエンターテイメントを提供しているだけに過ぎません

絶景が見える旅館というキャッチフレーズがありますが、日本全国、どこの田舎であれ絶景は存在しております

わざわざ馬鹿高い旅館費用をかけずとも絶景は拝めます

多くの山には登山ルートとは別にロープウェイ施設があったりもします

わざわざ苦労して登山する必要もありません

 

ではなぜ、人は『旅行』という趣味に夢中になるのか?

それはひとえに旅行の過程に価値を見出しているからです

とある美術品が見たいというだけでも、とある山の山頂の光景が見たいというだけでも、今は写真や映像が検索すれば幾らでも出てきます

であるのに実際に現地に行きたくなるというのは、道中の苦労を自ら買って行く様な物であり、人はその道中の苦労をこそを価値あるものと感じているからです

私は以前はバイクが好きで、片道200~300kmくらいのツーリングを良く行っていましたが、行先に大した思い入れはありません

その道中のである道にこそ思い入れがあります

「○○号線のこの辺りのルートはアスファルトが波打ってて走るのが怖かったな~」

「○○道路の山を抜けるルートでは道路上に動物が出てきたなぁ」

「○○ラインは良く対向車線のバイクがヤエーという挨拶をして来ていたな~」

など、色々あります

それを知ったから・経験したからどうなんだという話です

特にそんな経験をしなくとも人生は変わりません

特にプラスになる事もマイナスになる事もありません

ただ楽しかったという記憶が残るのみです

つまり、旅行とは、移動した先に『何か』があるのではなく、移動の過程にこそ旅行の醍醐味はあるのです

というお話でした

システムは完璧、欠陥が有るのは人間だ。いつもそうだ

初めまして

melloと申します

 

今回のテーマは『完璧なシステム』です

 

結果だけ知りたい方向けに結論を先に書かせて頂きます

 

完璧なシステムは稀有だし、そのシステムの運用者にはもっと欠陥がある

 

内容が気になった方は引き続きご覧ください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、今回は完ぺきなシステムについてです

私は以前、株式投資に関しても完璧なシステムを生み出したにしても人の手が入る以上完璧ではあり得ない

という旨の記事を書きました

melloblog.hatenadiary.com

当該記事に於いては、『全世界』に『時価総額加重平均』で分散投資するのが最も効率的なポートフォリオであるという前提に立った時、『全世界』に含まれる国は運営者によって恣意的に操作されてしまう(ロシア・ウクライナ戦争を契機に経済制裁としてロシアの株式を排除した)というお話です

この考えは、何も株式投資にだけ言える事ではありません

凡そ考え付く全ての事柄にあると言えます

何故なら、システムには運営者が居て、その運営者は人間です

人間である以上、ミスや欲とは無縁では居られないからです

また、『人』を完全に排除したにしても、短期間の間であれば問題無く運転出来るとしても、超長期という期間になると破綻する物もあります

自然界で言うと『閏』の概念もそうかもしれません(日付や閏の概念は人間が作りましたが)

melloblog.hatenadiary.com

私たちが普通に生活している上で、不変の物だと思っている日付に関しても、厳密に言えば一日あたり0.002秒ずつズレているので、まさしく超長期間で考えれば季節感は破綻する事になります

 

私が大好きな映画『マイノリティ・リポート』からセリフを引用させて頂きます

「システムは完璧、欠陥が有るのは人間だ。いつもそうだ」

これは物語の序盤、コリン・ファレル演じるダニー・ウィットワーが、犯罪予知システムについてケチをつけるシーンのセリフです

私は当映画が大好きで、若い頃から何度も何度も繰り返し見ました

なので私の中でトム・クルーズ映画と聞かれて一番初めに出てくるのは、ミッション・インポッシブルでもなくトップガンでもなくラストサムライでもなく、マイノリティ・リポートです

そして、このマイノリティ・リポートの、ダニー・ウィットワーのセリフはいつも私の心の中にあります

 

『完璧なシステムだ』として売り出されている物は、まず疑いますし、完璧なシステムの存在は稀有だという前提で考えて、さらにそのシステムの運営者にはもっと深刻な欠陥があると常に考えています

というお話でした

道具の捨て時は何時か?

初めまして

melloと申します

 

今回のテーマは『道具の捨て時』です

 

結果だけ知りたい方向けに結論を先に書かせて頂きます

 

基本的に、道具は使えなくなるまで使うべきではあるが、使用に対しあまりにストレスが溜まるのであれば捨てるべき

 

内容が気になった方は引き続きご覧ください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、今回は道具の捨て時はいつなのか?についてです

私は基本的には、物を買った時は使えなくなるまで使いたい人間ではあります

ただし、身体に悪影響があったり、使用するのに多大なストレスが溜まる物は、まだ使える物であっても捨てるべきです

 

ミニマリストの人の考え方としては『先に捨てても、本当に必要な物なら買い直したくなる』という事を言うとは思います

それは一つの真実ではあると思います

ですが、私は生来の貧乏性であり、家庭も貧乏に育てられましたので、まだ使える物を『とりあえず捨てる』という選択肢は、なかなか取れるものではありません

melloblog.hatenadiary.com

melloblog.hatenadiary.com

では、一生使っても壊れたり消費しきれない物を購入した場合は、一生涯持ち続けなければならないかと言うとそういう訳ではありません

私も一時期、筋トレにハマっていた時期があります

その時、趣味が高じてダンベルやバーベルを購入しました

金属製のダンベルやバーベルは、私のその後の人生で一生使っても壊れる事もなく無くなる事はありません

では私はどうしたかと言いますと、ジモティーというフリマアプリにて、低価格で他人に譲りました

ジモティーはメルカリと少し毛色が違い、0円で出品がなされていたりします

廃棄に関するルールや法律上、捨てたいけれど捨てるのに料金がかかったり、面倒な場所まで持ち込まないといけなかったりします

そんな物にお金や時間をかけるのはもったいないし、私が捨てたいと思う物を欲しいと思う人が居るのであれば、その人に譲ってあげた方が地球環境にも良いし、経済的にも良いのです

 

では消耗品はどうかと言いますと、私は出来るだけ自分自身で消費するよう心掛けています

学生時代や職場で必要だった鉛筆やシャーペン、ボールペンやメモ帳などは、今後の人生でどこかのタイミングでまた、大量に必要になる時が来るかもしれません

なので、今現在は少しづつ消費しながら保有しています

近い将来、実物の紙とペンは要らなくなり、デジタルで完結する様になるかもしれませんが、今はまだ実物を優先して使用しております

 

この考え方の良い所は、物の買い替えサイクルが異常に長くなる事です

物の買い替えサイクルが長くなるという事は、物にかかるお金が少なくて済むという事です

確かに、新製品が出る度に買い替えを行えば、常に最新のテクノロジーに触れられるし、流行の最先端に居れる気がします

ですが、流行の最先端に居るというメリットはそんなにないと考えています

人生や生活をブランディングしなくてはならないインフルエンサーならいざ知らず、普通の人生を送っている人間に流行の最先端は必要ありません

たまたま、現在使用している道具が壊れたから買い替える

本来はそんな頻度で十分と考えます

というお話でした