初めまして
melloと申します
今回のテーマは『天才』です
結果だけ知りたい方向けに結論を先に書かせて頂きます
人を評する時、簡単に『天才』と片付けてしまうのは如何な物かと考えます
内容が気になった方は引き続きご覧ください
さて、今回は天才という言葉の重みに関してです
個人による情報発信やエンターテイメントの創造が容易になった昨今、物語として多くの『天才』が創造されて来ました
そもそも天才という言葉を定義しましょう
wikiに依れば、天才とは天性の才能…つまり、特別に天(神)から才を賜ったものとされています
この定義に依ればつまり、天才は努力を必要としないという事になります
これは、ともすれば非常に失礼な事にも成り得ます
自分は対して努力もしない内から「あいつは天才だ」と言うのは、あまりに無礼な言葉となります
非常な労力をかけて、多大な努力を重ねて、精神を蝕む程神経を擦り減らして、能力を手に入れた人物に対して、世間は簡単に「天才だ」と評します
単純に何の努力もせずに、たまたま天(神)から気紛れに才を与えられた者(そんな人物が居るのか甚だ疑問ではありますが)と、努力によって能力を得た者を同一視しているのです
確かに、他者を評論する時、「彼は天才だ」と評するのは簡単です
能力が高い人物を一纏めにして天才という事にすれば、彼の人物を深く理解している様に聞こえます
ですが、実際は当該人物がどんな努力を重ねたのか?どんな心労を耐え抜いたのか?などはあまり話題にはなりません
言ってみれば他人を理解する事を放棄している様な物なのです
私は個人的には、人は他人を完全に理解する事は不可能であるという考えの人間ではありますが
それでも、他人がどれほど努力し、どんな心境であったかを慮る事は出来ますし、また、他人を評する以上そうするべきとも思います
天才という言葉で簡単に思い浮かぶ人物といえば、発明王トーマス・アルバ・エジソンです
彼の名言の中に『天才とは1%の閃きと99%の努力である』という言葉があります
この言葉は、一見して天才と凡人は1%しか違わない人間であるという風な、どちらかと言えば凡人に優しい言葉の様にも聞こえます
ただし、エジソン自身はそういう意味合いで言った訳ではないらしいです
本当の意味としては『99%の努力は誰でも出来る。ただし、凡人は残りの1%をどうやっても閃く事はない。言い換えれば、1%の閃きが無い人物には努力をする価値は無い。』という、凡人を切り捨てる意味合いなのです
また、似た様な事例が、我が国最高額紙幣に描かれている福沢諭吉の名言にもあります
『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』
この言葉も、一見して「人は皆、平等なんだよ」という様な意味合いに聞こえますが、実際は違う意味があります
つまり「天が人を造る時に上下をつけていないのに、現実世界では上下が明確に存在している。それは、その個人個人が生まれてから行ってきた努力の差である」という意味合いです
所謂、昨今良く言われる『自己責任論』です
学校の成績が悪いのは勉強を怠ったからであるし、身体が貧弱なのは身体の鍛錬を怠ったからである、と断じているのです
この様に、歴史上の偉人とされる多くが、天から与えられた才のみで能力が発揮される事はないと断じています
人を評する時、簡単に『天才』と片付けてしまうのは如何な物かと考えます
というお話でした