初めまして
melloと申します
今回は、完全な意思疎通は可能なのか?というテーマです
結果だけ知りたい方向けに結論を先に書かせて頂きます
ウィトゲンシュタインに依れば、言語を通じての完全な相互理解は不可能であると結論付けられている
内容が気になった方は引き続きご覧ください
さて、今回は意思疎通がテーマです
以心伝心という四字熟語があります
これは、文字や言葉を使わなくともお互いの心と心で通じ合うことを指します
熟年夫婦が、互いに何を考えているか、何を欲しているかを言葉を介さずに理解しあっているのを思い浮かびますね
あとは、お店の常連客が「いつもの」と注文する事もあたるかもしれません(「いつもの」とは喋っていますが)
上記の例を考えると、受け手側の膨大な経験則に基づいているだけであって、本当に心が通じ合っているのかというのは他者には分かり得ません
さて、この様なテーマで結論を出してくれている哲学者がございます
オーストリアの哲学者 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインと言います
名前の通り、ゲルマン系の人物です
ウィトゲンシュタインの哲学はユニークですが、初期と後期と別れていて、異なる視点で考察されている事が特徴です
内容が真に複雑であり、私程度の頭では到底理解出来きれる物ではないので、今回は後期に焦点を当てて参照したいと思います
ウィトゲンシュタインの後期哲学に当たる出版物(正確には死後に出版された)である『哲学探究』の中で解説されている言語ゲームという主張があります
言語ゲームとは、(私も完璧に理解できている訳ではないので、解釈違いなどはご容赦ください)人と人とが言語を用いて(文字であろうと言葉であろうと)意思疎通する時、両者には必ず一つ一つの言語に対する理解・解釈が違うため、完璧な意思疎通は不可能である
とする主張です
例えば
A「朝8時に起きるの辛いね」という言葉に対し、B「そうだね、辛いよね」と同意したとする
Aは単純にロングスリーパーであり、前日10時に寝ても、朝8時に起きる時に辛いという話をしている
Bは夜型人間であり、深夜4時に寝た場合を想定し、朝8時に起きるのは辛いという話をしている
といった具合です
もちろんこれは、話を単純化して例を作っているので、Bが夜更かしした事をAに伝えれば相互理解が出来そうではありますが
では実際日常生活に於いて、全ての会話に定義や前提条件を先に決めて話す事なんてあるでしょうか?
また、言葉の単語一つ一つの印象・イメージを完全に共有した後に会話をするでしょうか?
そんな事は不可能だと言うのがウィトゲンシュタインの主張です
さて、私が今回、なぜこんな重めなテーマを取り上げたかについてですが
またインフルエンサーの話なのですが
インフルエンサーに影響された人(以下信者と言います)は、インフルエンサーの言葉に盲目的に従ってしまう特徴があります
インフルエンサービジネスは宗教だと言われる所以ですね
上記の記事の様に、私はインフルエンサーをエンターティナーと考え
まともに話を聞かない様にはしていますが
信者の人というのは、ブログならブログの文字を、動画配信者なら動画の言葉を、何度も何度も繰り返し繰り返し、自らの脳に焼き付ける事で自己洗脳を繰り返しています
それは、インフルエンサー自身が意図しているか意図していないかに関わらずに行われ、キリスト教に於けるプロテスタント(聖書中心主義)の聖書や、イスラム教に於けるコーランの様に尊ぶべき対象が「何を言ったか」が大事になる考えです
そして、私は上記の様に「人と人とが言語を用いて完全な意思疎通を図る事は不可能」という考えなので、当然、信者同士で諍いが起こることは無理からぬことと思います
簡単に言いますと、聖書を何回読んでもキリストの心の内を知れる訳ではない
という事です
ただし、聖書を何度も読み直し、尊ぶべき対象が何を考え、この教えを残したのだろうと思いを巡らせる事で、高尚な人間になろうとする事まで否定するつもりはありません
人生の軸は自分の中にあり、その軸を太く、高めたいと自己研鑽に励む行為は神聖なものだと思いますが、人生の軸を聖書に求めてしまうと軸を放り出すという結果になるのではないかというお話です