『良い人』の条件とはなんだろう?

初めまして

melloと申します

 

今回は、『良い人』に関する事です

 

結果だけ知りたい方向けに結論を先に書かせて頂きます

 

見返りを求めず他者に対し奉仕し続けれる事が出来る人が良い人である

 

内容が気になった方は引き続きご覧ください

 

 

 

 

 

 

さて、今回は『良い人』がテーマです

優しい人っと言い換えても良いかもしれません

良い人とはなんだろう?と考えると最初に浮かぶのが、人に優しいとか、誠実な人とか、甲斐性がある人とか

人によって色々な解釈があると思います

 

性善説性悪説という考え方をご存じでしょうか?

これらは古代中国(約紀元前1600年~紀元221年まで)の諸子百家の内の二人である、孟子荀子の提唱した人間の悪性の起源に関するお話です

 

wiki引用

 

性善説性悪説は、「人間の自然本性(生まれつきの性質)は善である」とする説と「悪である」とする説。

 

引用終わり

 

つまりは

性善説は、人は基本的に性質として善性を持っていて、所謂「魔が差した」事によって悪事を働くのである

とする説と

性悪説は、人は基本的に性質として悪性を持っていて、普段はその悪性を理性によって抑圧して生活しているが、たまに抑圧が効かずに爆発してしまうことで悪事を働くのである

とする説です

 

二つは一見すると、結果として悪事を働いた時に傍から見たら、一緒に思える考え方ですが、人の心理に「悪意」がどこから発生しているのかという事を説いています

 

性善説は、特定の条件下において「悪意」をどこか外部から取り込んでしまったという説

性悪説は、元々人間の中に「悪意」が潜んでいて、特定の条件下において、その「悪意」が露見するという説です

 

悪意をウイルスとして考えてみるとイメージしやすいでしょうか?

 

例えば、今、人に対して腰が低く物腰の柔らかな人が居たとします

しかし、その次の瞬間に他者に対して暴力を図りました

これは、まさに今、悪意がその人の中に入り込んで悪事を働いたのでしょうか?

それとも、元々ふつふつと悪意が煮えたぎっていて、今限界を迎えてたのでしょうか?

 

それは他人には分かりません

本人にしか分かりえぬものです

 

それではその人が本当に良い人であるかどうかは他人からは判断が付かないものなのか?

と考えると私は分からないと思います

 

30年連れ添った夫婦が、「昔はこんな風じゃなかった」と言うのをよく聞きます

しかし、それは実際は片方がずっと演技していたのを見抜けなかっただけではないのか?と私は考えます

演技をしているという事はつまりは無理をしているという事

それに気づいてあげられずに少しづつボロが出始めて、最初の時の印象と違って来た事を「昔はこんな風じゃなかった」と相手のせいにしているのではないか?と思います

もちろん一般的に、『騙される方が悪い』という訳は無く、騙す方が悪いのですが

では、異性に対して良い恰好をするのは悪い事なのでしょうか?

女性との食事でお会計を男性が奢る事や、男性との食事で食事を取り分ける女性は悪いのでしょうか?

どちらも「より良い印象を相手に与えたい」と無理をしているのは明白です

しかし、その姿を見て、「この男性は甲斐性がある良い人だ」と思ったり「この女性は家庭的で良い人だ」と判断するのは早計です

もちろん時間が経つ毎に、この無理は剝がれていき、男性はケチになっていき、女性は(男性に)自分で取り分けろと言い出します

それで、「変わってしまった」と結論を出すのは最初から相手の心の内を見れていない事の証明です

 

そこで翻ってタイトルです

つまりは『良い人』とは、上記の例に乗っ取ると

男性は、女性に対してお金を出す事を本性の中で嫌だと思わずし続けられる人

女性は、男性に対して家庭的であり続ける事を本性の中で嫌だと思わずし続けられる人

となります

 

これを一般的に直すと

自分に不利益があると分かりきっている中で、他人に奉仕し続ける事ができる人

となります

たまに言われる、嫌われると分かっているのに自分の事を思って叱ってくれる上司

というのが当てはまりますかね

ボランティアなどで地域の清掃活動をしている方も当たるかも知れません

地域の住民(旅行者やたまたま通りかかった外部の人も居ますが)が汚した街を、ごみ拾いをして回る行為は、数値化すると自身が受ける恩恵よりも労力の方が勝ります

それを分かって何年にも渡り、何度も何度も地域の清掃をしてくれるボランティアの人物は良い人だと言えます

しかし、上記の様に、それらを行いつつ、実際はストレスを溜め続けていてその内にそのストレスが爆発して、目の前でゴミを捨てた人物に殴りかかるかもしれません

それはただ、普通の人が、良い人であろうと無理をした結果なので、必然です

 

将棋で一時代を築いた才能の持ち主である羽生善治氏の名言にこんなものがあります

 

何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。

報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている。

 

私はこの名言を上記の「良い人」の条件に当てはめて考えるとしっくり来ました