初めまして
melloと申します
今回のテーマは『善悪感』です
結果だけ知りたい方向けに結論を先に書かせて頂きます
誰もが正しい答えを得られるのであれば戦争や紛争は勃発しないし、全ての問題に正しい答えが出ているはずである
内容が気になった方は引き続きご覧ください
さて、今回は善悪感についてです
人生に於いて、何が正しくて何が間違っているのかを判断するのは困難です
その判断能力が成熟していく事が『成長』と呼べるのかもしれません
宗教の世界では、それらの答えに簡単に辿り着く事が出来ます
仏教で言うとブッタの考え、答えこそが最も正しく、それに近づく為に日々修行に励む修行僧が多く居ますし、修行に励むほど余裕は無いけれど仏教を信じている人は、修行を修めた偉いお坊さんの言うを聞く事で、自分も偉いお坊さんと同じく徳を積む事が可能です
ユダヤ教ではラビ、キリスト教では神父や教皇の言う事で正当を得たと感じられますし、ユダヤ教ではタナハ(トーラー、ネビイーム、ケスビームの頭文字を取った言葉)、キリスト教では聖書に従う事で、正しい生き方をしている実感を得られます
言ってみれば、宗教というのは『何が正しいのか?』という答えを他人に預ける物と言えます
そしてそれは大概の場合、正しい生き方と言えます
何故なら、人生で起こる全ての疑問に対して、全て自分の独力のみで解決するというのは不可能だからです
この世に『絶対的な正解』という物がない以上、凡そ正しいと言える宗教による『他人を当てにした、大体正解』に従うのはある種合理的とも言えます
ここで問題なのが、信じる宗教が違えば同じ設問に対しての答えも違っている点です
ABCという宗教があって、Dという設問に対して
AはEという答えが正しいと主張します
BはFという答えが正しいと主張します
CはGという答えが正しいと主張します
これでは他宗教間で紛争が起きるのも致し方ありません
戦争では、どこの世界の宗教でも禁止されている殺人を犯しているのは、別の宗教を信じる人達です(本当は大義名分に宗教的理由を利用しているだけですが)
『正義の反対は、また別の正義』とは良く言った物です
なので昨今は『何が正しいのか間違っているのか自分自身で判断しよう』という風潮があります
そこで上記の引用記事の内容に戻ります
つまり堂々巡りという事です
自分一人の判断能力では限界がありますし、大体正しいという物を皆で信用しようというのであれば他人が少しでも違った事をすると紛争の種になります
結局、常に『自分のこの判断は間違えているかも知れない』という危機意識を持つ事が肝要であると考えます
間違えているかも知れないと常々思っている事で、間違いに気付いた時や指摘された時に改められますし、人が間違っていた(自分の判断基準で言うと)としても「そういう考え方もあるか」と他人に寛容な対応が出来ます
というお話でした