なぜ人は『自分は他人より上手くやれる』と考えてしまうのか

初めまして

melloと申します

 

今回のテーマは『自己分析』です

 

結果だけ知りたい方向けに結論を先に書かせて頂きます

 

自分の事は自分が一番分かっている、という訳ではない

 

内容が気になった方は引き続きご覧ください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、今回は、人は自分の能力を過信してしまうというお話です

以前の記事でも少し触れましたが、私は学生時代は『人より優れている』と考えてしまう質でした

melloblog.hatenadiary.com

今にして思えば、何も成さず何も積み上げず何の結果も出していない自分に何故そこまで過信出来たのかは理解が出来ません

恐らく若さ特有の向こう見ずな考えであったのだと思います

でも、皆さんの中にもそういった時期があった人が居ると思います

いつしか鼻を折られ、挫折し、歳を取るに連れて、そういった尖った考えが減っていき、いわゆる『丸くなって』大人になっていくのだと考えます

政治に関する感性で、年齢層が高くなればなるほど考え方が保守寄りになる傾向があると聞いた事があります

『若い人間には無限の可能性がある』なんて、物語では良く聞くフレーズですが、それは歴史的に最も能力の高い人物が未来に現れる可能性がある

という事を耳触りが良い言葉に変えただけに過ぎません

言い換えれば、自分以前の全人類より自分は優れているという、全く持って驕り高ぶった考えであるとも言えます

自分の能力の評価というのは、結局は他人が決めます

「自分が最も優れた能力を持っている」といくら自負・自称しようが、結局は他人が評価するのです

自分の事は自分が一番分かっている、というのは勘違いでしかありません

こうした意識が希薄だからこそ、株式投資に於いて個別株を志向したがるし、将棋に於いて定跡を勉強するのではなくオリジナル戦法を志向したがります

自身の感性やインスピレーションに絶大な信頼を置く事と、多くの他人が進む道である基本を蔑ろにするというのはイコールではありません

それをもって、自身の能力のみで道を切り開いた人であるのなら他人の共感を求めてはなりません

なぜなら貴方は他人を理解できないし、他人は貴方を理解できないからです

歩く道を別にしたのであれば、理解したくとも理解できないのが道理です

現代人が人身御供を理解出来ないのと同様に、現代人が神仏を尊ばない感覚は理解して貰えないのです

そこに降り立ったのであれば、自分がどれだけ異常な事を言っているかは自分では理解が出来ません

間違っても『人より上手くやれる』などと考えてはいけないです

というお話でした