読書こそが最高の娯楽なのかもしれない 番外編

はじめまして

melloと申します

 

今回は昨日の記事の番外編になります

 

結果だけ知りたい方向けに結論を先に書かせて頂きます

 

才能は単体では意味がない

 

内容が気になった方は引き続きご覧ください

 

 

 

 

 

 

さて、今回は昨日の記事の続きです

とは言っても少し、話は変わるのですが

私は、学生時代、特にこれといった特技があるわけでもなく

学校の成績が良かった訳でもなく

簡単に言えば、馬鹿で愚かでした

しかし、若者特有の自信は少しはあって「俺の才能はいつか開花する」と考えるドリーマーでもありました

そんな最中、高校の国語のテストで答案用紙に書かれた教師の言葉が頭に今も、こびり付いています

 

設問の詳しい内容や、私の回答は忘れてしまったのですが

教師の添削は以下の言葉でした

『○○(私の名前)の言いたいことは先生すっごく分かる。けど、世間の人に評価されるという事も才能の大小と同じくらい大事なんだよ』

 

おそらく、若い私は尖っていて、「他人に認められるよりも才能のアリナシの方が重要である。才能があるのであれば他人の評価なんか価値はない」という風な回答をしたのではないかと思います

 

若い私は、この国語教師の添削を見て、「あっこの教師とは合わないな」と思いました

と同時に考え方を真っ向から否定された事に少しショックを覚えた事も覚えています

今では、「先生すっごく分かる」の部分に優しさや寄り添ってくれているのを感じれますが、当時は突き放された感覚でした

 

今になって考えると、教師の言うことが正しいと思います

才能は披露される場所に立ってこそ、初めて発現するものと思うからです

 

将棋で有名な藤井聡太プロ、彼は間違いなく頭が良いです

IQで調べても、学力で調べても相当上位に位置すると思います

しかし、もし、将棋に出会っていなければ鉄オタとして人生を終えていたかもしれません

あるいは天気予報士として人生を終えていたかもしれません

あるいはパソオタとして人生を終えていたかもしれません

 

実際に本人がどの人生が最も幸せなのかは本人しか判断ができませんが

将棋という物が存在しなければ、将棋が強いという才能も存在しないのです

 

野球の大谷翔平選手にも同じ事が言えます

野球が無くても別のスポーツで大活躍していたかもしれませんが、野球が強いという才能は行き場を無くすのです

 

 

翻って言いますと、才能とは単体ではなんの意味もなく、とある特定の物と合わさることで初めて意味を成すのです

 

才能の産物は脳内の電気信号の僅かな違いから産まれます

藤井聡太プロの棋譜大谷翔平選手の二刀流を維持する精神力・多井降晴プロのバランス能力・太宰治の繊細なストーリー…などなど

 

関わる人数が減れば減るほど、当人の才能がそっくりそのまま出てきます

多くの人が関わる映像作品では個人の才能よりも、調整や忖度の影響の方が多く

才能の凄さを楽しむ事が出来ません

 

高い能力を理解出来るのは、同じ高い能力を持つ人間と言われるように

藤井聡太プロの棋譜の一手一手の詳しい意味や、大谷翔平選手の一球一球の配球の意味や、多井隆晴プロの一打一打の詳しい意味は、その競技に精通していなければ分かりません(分かったような口調でダメ出ししているファンも居ますが…)

 

それにスポンサー問題もあります

将棋のタイトル棋戦もスポンサーが居ます(だいたい新聞社です)

野球も球場に広告を打つスポンサーが居ます

麻雀もタイトル戦にスポンサーが居ます

 

これらはスポンサーが居るからプロ競技として成り立っています

スポンサーは何らかの方法でお金に換えられるからこそスポンサードしている訳です

当然、中身の上等さと、賞金の多可は正しく比例しません

おおよそ比例するようになっていますが

竜王戦より棋王戦での対局の方が良い将棋が指せる場合もあります(野球と麻雀は私が、あまり知識がないので将棋と似た表現ができません)

 

それに比べて、本は直木賞を取った作家の本だからと価格が高くなる訳でもなく

無名の作者だからと安くなる訳でもなく

出版社によって決められたルールで値段が変わるだけで、閉じた世界で完結しています

作品の良し悪しは読者の感じ方次第であり、良い作品へ辿り着くためには数を読むしかありません

だからこそ、出会った最高の作品を少ない金額で何度も楽しめ、より深い造詣を得られると思います

 

最高の才能を持った作者が作り上げた混じり気の無い世界(関わる人数が最小の一人)を少ない金額で楽しむ事ができる読書という娯楽は、娯楽として最高なのかもしれないというお話でした