漢字をやたらめったら暗記するというのは学力の向上には繋がらない

初めまして

melloと申します

 

今回のテーマは『学力』です

 

結果だけ知りたい方向けに結論を先に書かせて頂きます

 

コミュニケーションの道具を理解するのに相当数の時間を使っても、学力の向上に寄与しないのは自明の理と言える

 

内容が気になった方は引き続きご覧ください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、今回は漢字についてです

ここ十数年、若者の携帯電話の保有率は猛烈に増え、今や一人一台以上保有している状況です(メイン機サブ機の使い分け)

2000年代に大きく懸念されていた問題として『若者の漢字離れ』がありました

人が一々漢字を暗記していなくとも、携帯に文章を打ち込むと『予測変換』なるものが勝手に漢字に変換してくれる機能がある為に若者の識字率が著しく下がる、と懸念されていました

実際問題、ハイテク機器の進化に伴って、わざわざ人間が漢字を暗記する必要性は下がっています

 

時は明治時代、黒船の来航に伴い、外国との国力の差を思い知った日本は、欧米列強に追い付く為に時の幕府は数々の施策を打ちました

その中で、日本国民の学力向上の為に『漢字廃止論』なる物が幾度も立ち上がりました

曰く、漢字の存在が日本国民の学力向上を妨げているとの事です

漢字という物は、同じ物を表す言葉が多数存在しており、その差異を一々理解してから学問を修めるというのは大変に非効率だという論です

そこで、知識人の中には、福沢諭吉などは、意味合いが被っている漢字を廃止し簡易的な漢字のみを残す『漢字制限論』や、森有礼などは、日本各地に存在する言葉(つまりは方言)を触るのではなく公的な文章は英語を採用する事を主張しましたし、(時代は変わって終戦後ですが)志賀直哉などは、日本語を廃止しフランス語を採用すべきと主張しました

 

日本は古くから日本全国で色々な言語(大別すれば全て日本語ではありますが)を用いて文化が発展して来ました

その中では、感情の機微や、状況の機微を象徴する他の言語には無い言葉などがあり、日本人の多くの伝統に沿った感情表現法として確立しています

その地方の言語や伝統を全て無き者とするのが『漢字廃止論』であり、日本人には到底受け入れ難い物でした

結局、福沢諭吉らが提唱する『漢字制限論』が採択され、同じ意味合いの言葉(実際には僅かに違うが)を同じ漢字を使用する様になりました

 

つまり、今現在日本国にて使用されている漢字という物は、明治時代に比べて遥かに簡略化された『簡易漢字』を使用しているのであって、その簡易漢字すら暗記出来ないのであればそれは学力云々以前の話であると言えます

そもそも、言語を完璧に理解するという事と、学問を修めるという事はベクトルが違います

同じ『英語が話せる』と言っても、英国英語・米国英語では使用する単語やイントネーションが違ったりしていて、相互に理解が難しい事があります

また、英国英語と一言に言っても、ウェールズの英語と、イギリスの上流階級が話す英語(俗にいうRPやPosh)では全然違う物です

例え、これら全ての言語を理解したとして、学問の発展には何ら寄与しません

言語というのはそもそも相互理解の為の道具であり、コミュニケーションの道具です

 

コミュニケーションの道具を理解するのに相当数の時間を使っても、学力の向上に寄与しないのは自明の理と言えます

というお話でした