合理的である事は常に最善とは限らない

初めまして

melloと申します

 

今回は、ここ数年、いや、ひょっとするともっと前から言われている

合理的である事が常に最善であるか?

という考えについて私の見解を書いていきたいと思います

 

結果だけ知りたい方向けに結論を先に書かせて頂きます

 

人生において、軸となる部分に関しては合理的であるかより感情的に判断した方が良い場合もある

 

内容が気になった方は引き続きご覧ください

 

 

 

 

さて、今回も考え方についての事なので、誰かが間違っているという話ではありません

 

あくまで私はこう思うというお話です

 

 

皆さんは『合理的な人』という表現をされている人をどう捉えているでしょうか?

 

頭の良い人・IQが高い人・高学歴な人…

色々あるのでしょうが、好意的に捉えているのではないでしょうか?

はたまた、人間味が無い・理屈っぽい・頭でっかち…

という風に嫌意的に捉えていますでしょうか?

 

私は、そんな事はないと思っています

そもそも、『合理的な人』という表現が少しズレているのではないか?と考えます

 

「合理的な判断」はあると思います

しかし、それはあくまでその人の一面であり、人生においてすべてを合理的に生きた人というのは見たことがありません

そして、それは『サイコパス』に繋がるのではないか?とも考えます

 

wikiより引用

 

サイコパス(精神病質)とは

 

精神病質またはサイコパシーとは、精神障害の一種であり、社会に適応することが難しい恒常的なパーソナリティ障害

 

引用終わり

 

 

サイコパスの一般的な特徴としてこれらが挙げられます

 

 

これらの特徴を見て、気付く事があります

3番目の特徴の延長線上にある考えですが

人からの評価を考えないとすると上記の特徴を満たしても自身に損はない

という事です

 

この考えを突き進んで行った時、『功利主義』という所に辿り着きます

功利主義というのは、すべてにおいて損得で判断するというものです

近しい考え方に優生思想というものがあります

 

優生思想の実例としては、『相模原障害者施設殺傷事件』が良い例です

 

合理的である=功利主義者である=優生思想者である

と言いたい訳ではありません

 

ただ、全ての事象に対し、常に合理的に判断すると言うのは恐ろしさも孕んでいると思います

 

では、反対に全ての事象に対し、感情的に判断するのはどうか?と言うとこれもおかしくなります

 

カッとなって殴ってしまった、態度が気に入らないからイジメた、欲情が抑えられずに性犯罪を犯した

 

これらは感情が論理や倫理を追い越してしまった時の事象です

 

 

つまりは合理的に考えるべき事と、感情的に考えるべき事、という区分けがあるのではないか?ということなのです

 

 

私は趣味として、将棋や麻雀が好きなのですが

今、将棋界は藤井聡太プロ人気で沸いています

現在七冠で最後の一つのタイトルへの挑戦権を得ました

八冠独占となるかもしれません

通算成績は0.8337です(全ての対局で勝った場合1になります)

つまりは藤井聡太プロと対局する相手は8割強負けるのです

1割強しか勝てない競技ということですね

では、今から将棋のプロになる事は合理的なのか?

と問われると疑問符が付くと思いませんか?

 

同じく、麻雀のプロは2015年時点で1339人いるそうです

しかし、麻雀プロだけで食べていけるのは50人程度だそうです

他の約1200人程は、アルバイトをしたり会社員をしたりして収入を他のところから得て生活しているようです

では、今から麻雀のプロになる事は合理的なのか?

 

彼ら彼女らに共通して言えるのは、その競技が好きという感情がある

という事です(少なくとも過去はそうだった事がある)

 

人生において、軸となる部分に感情的に好きなものを置くというのは、人生を豊かに生きる上で重要な事と思います

 

もし、彼ら彼女らが人生において全て合理性だけで生きていたのならきっとプロにはなっていないはずです

 

反対に、合理性だけで行うべきものが投資です

株式投資において感情的に判断をするのは大怪我の元になります

株式投資が好きで、株式投資が趣味で、株式投資を専業にしたい

という人以外はインデックス投資で十分かと思います

 

私は投資においては合理性を追求し、インデックス投資で済ませて

将棋・麻雀・映像鑑賞・読書・ゲーム等、趣味に感情的に没頭したいと思います