私がヴィーガンになれたのは食による多幸感が人より低いから

初めまして

melloと申します

 

今回のテーマは『食による多幸感』です

 

結果だけ知りたい方向けに結論を先に書かせて頂きます

 

こだわりを持てば「あれが食べたい」「これが食べたい」と言う意識が芽生える

 

内容が気になった方は引き続きご覧ください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、今回は食へのこだわりについてです

皆さんは食事に対してどのくらいこだわっているでしょうか?

わたしは基本的に「美味しく」「安ければ」それで良いという人間です

と言っても、美味しい物を食べれば感動はしますし、料金が安ければその分大量に食べられますので嬉しく思います

しかし、逆に言えばそれだけです

「このレモンはシチリア産のレモンを使っており…」なんて言う講釈に興味はありませんし、それを知る事で感動が深まる訳でもありません

食事の尺度としては「美味いか不味いか」「多いか少ないか」という考え方は、あながち間違っていないと考えます

現代社会には、食事の他にも十二分に娯楽はあり、幸福を感じられる物は数多く存在しております

ただ生物として絶対に行わなくてはならない生理現象の内の一つの食事をするのは人類共通の行動ではありますが、そこに幸福感を必ずしも感じなくてはならない訳ではありません

だからこそ、私はヴィーガンという考え方に容易に賛成出来るのだと思います

ヴィーガンベジタリアンに関する保健関連の論文やWHOなどの発表を見ている限り、菜食主義にする事によるメリットは多大な物であるというのは分かります

だから合理的に考えれば菜食主義は良い考えだと取り入れる事が出来たのだと思われます

ただ、これは私自身の内心の問題であり、食事に対して十分な多幸感を得られる人で、食事が生き甲斐に繋がっている人にまで無理に勧める物ではありません

いくらヴィーガンが地球環境に優しいとしても、その人にとってストレスで寿命が10年20年30年も縮まるのであれば、それはむしろやるべきではありません

 

世のヴィーガンの発信者の多くは「食にこだわりを持ったからヴィーガンになった」という主張が大半を占めています

ですが、私は、私の様な意識の低いヴィーガンというのもアリだと思います

私は、新社会人になりたての頃、朝昼晩カップ麺という事も往夫にしてありました

理由は「食事として成立している味」であり「安価」であり「食事の手間がほぼ無いに等しい」からです

むしろ、休憩時間に食事を取っていないのを同僚や先輩に見せるのは、無駄に心配をかける行為だと感じて、義務的に食事を摂っているという側面もありました

空腹が不快だから食事を摂る、心配をかけないように食事を摂る

私にとって職場での食事はそんなものでした

 

食事にこだわりを持つというのは、無駄とは言わないですが、私には無用の物です

高価であったり、見栄の為に「あれが食べたい」「これが食べたい」という意識が芽生えるのは、食事による多幸感がたくさん得られる人向けの話なのです

というお話でした