人には正しい方向へ向かって確かに一歩ずつ進んでいるはずだという道筋こそが必要なのだと思う

初めまして

melloと申します

 

今回のテーマは『希望の実感』です

本記事はTVゲーム『FFX(ファイナル・ファンタジー10)』のネタバレがあります

未プレイであり、当該ゲームをプレイする気がある方は本記事を読まない事をお勧めします

ネタバレが気にならない・既プレイの方は引き続きご覧ください

 

結果だけ知りたい方向けに結論を先に書かせて頂きます

 

ボン教の教えも究極召喚も、まさしく人類の希望の星だった

 

内容が気になった方は引き続きご覧ください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、今回は人の希望に関する事です

私は、スクエアエニックスのゲームであるFFXを2001年の発売からしばらくしてプレイしました(我が家は貧乏でしたので、新品購入ではなく中古品を買ったので発売からしばらくしてからのプレイでした)

当時は私も若く、ストーリーも表面を軽くなぞる程度に見ていた記憶があります

そして、特段何かを思った記憶もありません

ですが、ここ半年程でSteamにてHDリマスター版が発売されているのを見て、再度購入して久しぶりにプレイしてみました

一通りクリアした後、ネットで情報集めをしていて、自分と他人の感想の違いなどを感じたので、今回はその相違について書いていきたいと思います

思った相違を大まかに挙げていきます

・ユウナレスカの考え方

・エボン教の意義

・ワッカに対する印象

・ドナに対する印象

 

ユウナレスカの考え方

本ストーリーに欠かせないのが『シン』の存在です

シンというのは、スピラという世界に鎮座する災厄です

ストーリー中でも『死の螺旋』と表現されています

そもそもスピラという言葉の語源が、英語のspiralであるとされています

シンは登場人物達が居る時代の1000年前から存在してます

シンは、人が多く集まる場所や機械を多く使用する場所に現れ、死と破壊の災厄を振り撒いていきます

スピラの人々は、今現代の我々には想像をする事も出来ない程の恐怖と共に生活をしているのです

シンは、召喚士と呼ばれる特別な人物が行う『究極召喚』という御業で一時的に打倒する事が出来ます

ただ、究極召喚の代償として、召喚士と、その最も親しい人間であるガード(召喚士のボディガード的存在)の命を消費します

ボン教の老師達は真実を一部隠してスピラ中に教えて居るため、ガードの命を消費して究極召喚をしているという事すら知らないのです

シンを打倒する力を持つ究極召喚は、シンを完全に消し去る能力はありません

一時的にその力を著しく低下させるのみです

その短い安息の時間をナギ節と言います

ただ、前述した通り、エボン教の老師はスピラ中の信者達に真実を語っていません

シンが復活した時、エボン教はスピラの中に教えに従わない人達が居り、その者ら罪が許されていないからだと説きます

なので、スピラの信者達は「いつかは罪が許されシンが復活しない時が来る」と信じています

1000年の歴史上、物語の主人公達が居る時間軸ではシンは5回、究極召喚によって打倒されています

ナギ節は数年の感覚しかありません

本作の召喚士であるユウナの父親がシンを打倒したのが10年前とされていますので、大体10年と考えると、残りの950年間をスピラの人々はシンと共に生きているという事になります

 

さて、ここでネットの反応と私の考えの相違があるのですが

ネットでは『復活するのが分かりきっている究極召喚を召喚士に与え続けるユウナレスカは悪』かの様に発言する人が居ます

しかし、これはどうなんでしょう?

ユウナレスカは、主人公達に「究極召喚は何も変えられないまやかし」と言われても「究極召喚は希望」と言いました

ユウナレスカは自分の命、そして最愛の人物でありガードのゼイオンの命を捧げました

さらに、その後に続く4組の召喚士とガードにも同様の力を授けました

途中で思い留まる時間はいくらでもありました

ですが、ユウナレスカは究極召喚は人々の希望であると言い続けました

そこに何らかの意図があるのではないかと考えます

我々の様な、日々を安穏と過ごす人達には「またすぐ復活するんなら無意味じゃん」と考える短慮な考えでは洗い流せないほどの恐怖がスピラにはあったのではないでしょうか?

『完全な解決策なんかよりも目の前の大事に対応する事』

これがユウナレスカが考えていた事ではないでしょうか?

そしてそれは悪い事でしょうか?

東京大学(偏差値65)が日本国の最高学府という事は分かっていても、同時期受験した京都大学(偏差値64)や一橋大学(偏差値64)や大阪大学(偏差値62)に合格したのなら、多くの人は東京大学に不合格でも、京都大学一橋大学大阪大学に合格ならそちらに進学すると思います

完全無欠の絶対解以外は全て無意味とするのであれば、東京大学以外に進学した人間以外は全て無価値となります

ですが、実際問題そんな訳はありません

東京大学以外の大学に進学した人間も、もっと言えば高卒中卒の人間であっても人類史に残る偉業を達成することは不可能ではありません

あるかも分からない完全な解決策を模索するよりも、より多くの人間の幸福に資する事の方が大事であると、ユウナレスカは考えたのではないでしょうか?

そういった考え、信念であるからこそ、4組の召喚士とガードに究極召喚を与えたのではないかと思います

 

ボン教の意義

前述したとおり、スピラという世界観的にはシンという存在は、日々の生活や人々のメンタルから切っても切り離せないものです

ですから、エボン教の民は召喚士を自身らよりも尊い存在として崇め奉り、数々の優遇を行います

また、シンを打倒した召喚士を大召喚士と呼び、各地の寺院に銅像まで作ります

そんな思いもあり、その過酷さに旅を途中で辞める召喚士を侮蔑する風潮があります

人々からすれば「自分の命を犠牲にて我々にシンの居ない安息の日々を与えてくれる存在」と考えていた召喚士がある日突然「やっぱり自分の命が惜しいから旅を辞める」と言い出した様なもので、今まで特別視して特別扱いをされてきた存在から、ただの人に成り下がったのですから、ある種裏切られた様な感覚を覚えるのでしょう

シンへの対処を召喚士にお任せして、その他のバックアップできる事に関しては何でもして協力しているつもりだったのですから、それも当たり前です

旅を辞めるのなら今まで行ったバックアップを返せと言いたくなるのも納得です

そこへアルベド族という異質な存在が居ます

アルベド族は、召喚士による究極召喚以外の方法でシンを打倒しようとする一族です

我々の一般的な感覚からしたら「スピラ中の全員がアルベド族の様に『完全無欠の絶対解』を探し求めたらきっと見つかるだろう」と考えると思います

ですが、その成果はゼロです

一度もシンを打倒出来ないし、その度に甚大な人的・物的被害を被ります

なにより、召喚士が自らの命を犠牲にして、そのガードは道中の召喚士の生命を命と賭して守って、スピラの人々はその一行を全力でサポートしているという全体で協力し合っている社会で、漸くシンを打倒したとしても、シンは数年後に復活し、その原因はエボン教を信じない人間が居るからだと教えられている以上、アルベド族にヘイトが向くのは致し方ありません

ボン教の教えによって、シンという直視出来ないほどの恐怖を覚える存在と共存出来ていると考えるとエボン教の存在意義というのは、それなりにあるのではないでしょうか

 

ワッカに対する印象

ゲームの世界観への理解度が足りない人物からしたら、ワッカの態度というのは理解し難いと思います

ワッカは、日々を便利にする機械を毛嫌いし、アルベド族を嫌い、エボンの教えに忠実な、一般人です

ワッカの態度や考え方がスピラに於いてのニュートラル、つまり当たり前の世界観なのです

作中でワッカが、リュックがアルベド族である事がワッカに露呈した時のネットの反応は「ワッカは意地悪・態度が悪い奴・嫌な奴」といったネガティブな反応です

ですが、この世界ではあれが普通なのです

ティーダがリュックやアルベド族に対して寛容な態度を取れるのは、ティーダがあの世界に於いてどこまで行っても部外者であるからです

彼が元々居た世界には、シンという存在が居らず日々を平和に過ごして来た人生でした

今の時代に例えるなら、戦争を知らない日本の17歳くらいの少年(ティーダの年齢設定が17歳)が、ロシア・ウクライナ戦争の激戦区にいきなり放り出されて、現地民に「停戦すれば良いじゃん」と言っている様なものです

ウクライナの最前線に居る人間にそんな事を言っても仕方がありませんし、自身の家族を殺されたり、故郷を壊されたウクライナからしたら、ロシアやロシア兵への憎悪というのは簡単に払拭できるものではありません

それが当たり前です

ロシア兵を一人ずつ倒していけば、少しでも元のウクライナの姿に近づくかもしれないなどというウクライナ民の悲痛な思いなど日本の少年には理解し難いに違いありません

 

・ドナに対する印象

物語には、主人公一行以外にも召喚士とガードが旅をしています

その中に少し意地悪なキャラクターとして、ドナとバルテロという二人きりで旅をしている一行があります

ドナは、旅の途中で主人公達に会う度に憎まれ口を叩く意地悪なキャラクターです

その振る舞いに多くのプレイヤー達は、ただただ性悪な召喚士だという感想を持ったと思われます

ただ、私は二回目のプレイという事もあり、ドナに対する印象が少し違いました

召喚士は自分の命を犠牲にして究極召喚を以ってシンを打倒し、自分以外の人間にナギ節を齎す志を持った人です

そう考えれば、召喚士にとって他の召喚士というのはある種、自分が齎すナギ節によって守るべき存在とも言えるのです

つまり、ドナにとっては、主人公一行も自分が守るべき対象と見ていたのではないか?

と考えられるのです

だから主人公一向に憎まれ口を叩き、ユウナの心を折ろうとしていたのかもしれません

ゲームのストーリー上、究極召喚が召喚士に死を齎す物だというのはプレイヤーやティーダには知らされていません

その情報を持っているのかいないのかで、ドナに対する印象は少し変わるのではないかと思われます

言ってみれば、子供が悪さをした時に怒ってくれる近所のおじさんの様な存在なのかもしれません

子供達からしたら口うるさくて怖いおじさんであっても、周囲の人や子供の親からしたら有難い存在なのかもしれません

 

大人になってみて、自分自身の考え方や、情緒が成熟して改めてプレイしてみて、また違った感想を抱ける作品という意味ではFFXは間違いなく傑作であったと思います

というお話でした