武田勝頼が大敗を喫した長篠の戦いとは如何なる戦いだったのか

武田勝頼最大の汚点と言えば

中学・高校の歴史教科書にも大々的に描かれている『長篠の戦い』かと思われます

 

長篠の戦い自体は、特に歴史に造詣が深い、という訳でなくとも、日本の歴史教育を受けた日本人なら知っている人が大半でしょう

 

しかし、その内容は?

と聞いてみると意外と曖昧な記憶しかないのではないでしょうか?

 

イメージで言うと

 

『強大な軍事力を誇る武田家と、稀代の天才織田信長が率いる織田軍・その後の歴史で徳川幕府を開く徳川家康率いる徳川軍の連合軍の戦い』

 

『織田軍が強大な軍事力を誇る武田騎馬軍を、3000挺の鉄砲を使って3段撃ちを決行し、見事に打ち破った』

 

などでしょうか

どれも間違いではありませんが、詳細を知ると、どうも印象が違って見えます

 

 

まず、その兵力差です

なんとなくのイメージで(上記にも書きましたが)、武田軍が大軍勢で織田軍は小軍勢だったが、織田信長考案の3段撃ちのおかげで勝てた(3段撃ちの真偽自体が怪しいとはされていますが…)

と思っていませんでしょうか?

 

これに関して、完璧な歴史資料と言うのは存在しませんが、幸いにして両家には有名な軍事資料があります

 

織田家の『信長公記』と武田家の『甲陽軍鑑』です

 

前回記事にも記載しましたが、これらは家臣やそれに類する人物が編纂しているという事も有り、全幅の信頼を置く事は出来ません

出来ませんが、あくまで参考として両者を比較する事である程度の数字は吸い去る出来ると思われます

 

さて、信長公記と甲陽軍鑑ですが、両家の大きな戦という事も有り、長篠の戦いについてもしっかりと記載されております

まず、両者で武田軍の兵力数については乖離は見られせん

信長公記では『武田軍1万5千』と書かれ

甲陽軍鑑では『武田軍1万2千』と書かれております

 

ところが、織田軍の兵力数は大きな乖離が見られます

信長公記では『織田軍3万』と書かれ

甲陽軍鑑では『織田軍10万』と書かれております

 

 

前提として

武田家的には「織田軍が莫大な兵力数だったから負けた」という風にしたいため、織田軍の兵力数を水増ししている可能性が高く

織田家(又はその後に織田信長の評価を不当に高く持ち上げる事によって自分の利益になる人物によって)的には「兵力差は大きく開いていた訳でなく、あくまで織田信長の機転(3段撃ち)のおかげで勝った」という風にしたいため、織田軍の兵力数をサバ読みしている可能性が高いと言えます

 

 

織田家にとって長篠の戦いとは、同盟者である徳川家が治める遠見・三河に武田家が進軍して来た事に対する徳川家への援軍という立場です

当時、織田家は背後に本願寺という厄介な、ややもすれば自国の農民たちが簡単に蜂起させる事が出来る敵を抱えており

隣接していないとは言え、北陸方面には長尾家(関東管領上杉家の名跡を継いでいるので正確には上杉家)、中国方面には毛利家、四国方面には長曾我部家という強国・大大名が居るとなれば、他国の争いに10万もの兵力を派遣したというのは、些か信憑性に欠けると考えられます

同様に、武田家も背後に北条・上杉という大国が睨みを利かせており、全兵力を長篠の戦いに向ける事が出来ず、対越後・対相模に1万ずつ(併せて1万とも)の兵力と武将を配しています

その為、長篠の戦に赴いた兵力の一部は寄せ集め(現地調達的な)な兵士が多く練度も士気も低く、信長公記と甲陽軍鑑に書かれている武田軍の兵力数の差の3000は、戦いが始まる前に逃げてしまったものと思われます

 

 

因みに、攻め込まれている当の本人の徳川家の兵力は凡そ8000とされており、織田家の10万の援軍は、こちらの意味合いでも異常と思われます

同盟しているとはいえ、自国(徳川家)の危機に8000しか兵数が集まらない様な弱小国ならば、そしてその国を守る為に10万もの援軍を差し向けるだけの余裕があるのであれば、徳川家を潰して自分自身(織田家)で三河・遠見を切り取ってしまえば良いからです

 

実際の所は、信長公記を全幅に信頼する訳ではありませんが、3万に近い数字だったのではないかと予想されます

 

総合すると長篠の戦いとは

武田軍(1万5千)対織田軍(3万)・徳川軍(8千)の連合軍

の戦いであり、武田軍が敗北したのは当然と言えます

しかも、攻める目的たる徳川軍は城に籠り切って、只々守っていれば良いというお気楽な状態で(実際は織田家に援軍に来て貰っている体裁上戦場には出てきているが無理に攻める必要がない状態)、代わりに不利となれば即座に退却が出来る援軍である織田軍は武田軍の倍以上の兵力を有して側面から攻撃をしかけてきます

 

また、前述した通り武田軍にとって長篠という土地は地元である甲斐・信濃・上野から遠く、遠征軍であり

織田・徳川にとっては土地勘のある地元であり祖国防衛軍であり有利な条件が揃っていたと言えます

 

ではなぜ勝頼はそんな無謀な戦いに身を投じたのか?

それは、前任たる晴信からの代替わりが上手く行かなかったからかと考えられます

武田晴信の没年は元亀4年(1573年)

長篠の戦いは天正3年(1575年)

その間は僅か2年しかありません

 

また、前回記事にも書きましたが、勝頼は本来支配国の一つでしかない諏訪家を継ぐ者として育てられましたし、周囲の人物達もそう考えて来ました

それが突然武田家を継ぐべき嫡男たる義信を廃嫡し、幽閉し(一部資料には切腹させたとまで書いてある物もある)無理矢理、晴信の四男でしかなかった勝頼が担ぎ上げられたのです

 

家臣団からすれば、自分の頭の上に座る人間が急にすげ変わっただけでなく、見方によっては今まで見下していた様な人間を当主として仰がなければならなくなったのです

 

そりゃあ不満も奮発するものと思われます

もし仮に長篠の戦い自体が10年後に行われていたのであれば、勝頼ももう少し武田家をまとめ上げる事が出来ていたでしょうし、歴史は変わっていたかも知れません

ただ、それだけに勝頼にとっては父晴信も成し得なかった偉業を欲し、さらなる無謀な戦いに身を投じていたかもしれません

 

勝頼は家臣団に認められる為には

祖父信虎の時代は甲斐を統一し、諏訪・今川との同盟

父晴信の時代は信濃を一部北部除いて切り取り、上野を切り取り、義元死去の後駿河を切り取り

という父・祖父の偉業を越えねばなりません

その為には、北の越後には強大な上杉家、東には上杉家を跳ね除けた強国北条家、西には驚異的な速度で領土拡大を図っている織田家が居て、唯一攻められそうな国が三河・遠見を治める徳川家があり、他に道はなかったのかもしれません

 

 

 

 

因みに

武田晴信(信玄)といえば、皆が想像する人相は諏訪法性(有名な赤い兜)を被った姿を想像するかと思いますが

こちらの画像を想像する方も居るかと思います

この画像を元に、

後年の創作によって『晴信はヒゲを生やしダルマの様な恰幅の良い体格』であるというイメージが定着していますが、この画像の本人は最新研究では『能登畠山氏』であると言うのが通説です

 

そもそも

信虎の肖像画から晴信

晴信から勝頼

を見比べてみると、明らかに体格から何から違和感を覚えるでしょう

 

信虎の肖像画と言えばこちら

 

勝頼の肖像画といえばこちら

 

現在、ウィキペディアの晴信のページには別の肖像画が乗ってあります

 

晴信の容姿をWikipediaのページの物と考えると、信虎・晴信・勝頼の三代の血の繋がりを感じられます