初めまして
melloと申します
今回はテーマは『ドラクエⅤを愛する理由』です
本記事は『ドラゴンクエストシリーズ・ヒカルの碁』のネタバレがあります
未プレイであり、当該ゲームをプレイする気がある方は本記事を読まない事をお勧めします
ネタバレが気にならない・既プレイの方は引き続きご覧ください
結果だけ知りたい方向けに結論を先に書かせて頂きます
美しいストーリーであり、それを私が美しいと感じる事が、私がドラクエ5を愛する理由かと思います
内容が気になった方は引き続きご覧ください
さて、今回は先日も記事にしましたドラクエに関する事です
上記記事内でも書いていますが、私はドラゴンクエストシリーズの中でも特に5が一番好きです
私の個人的見解として、ドラゴンクエストシリーズは6で完結した物と考えており、7以降は正直、蛇足だと感じます
私のプレイ履歴は1~8までで、9・10・11は未プレイです(10に関してはオンラインゲームになっていて、やる気もありません)
なので、7以降は無き物と考えます
ドラゴンクエストシリーズは総じて『勇者が世界を救う』物語であると言えます
その中で、唯一主人公が勇者ではなかったのが5です
サブタイトルに『天空の花嫁』とある様に、勇者の血筋を引いているのは主人公が結婚する花嫁の方なのです(ビアンカを選べばビアンカが、フローラを選べばフローラが天空人の血を引いているという設定になります)
そして、父パパスの時から世界各国、ずっと探し求めていた天空の勇者が、自分の息子だったというストーリーは美しさを感じます
ちょうど『ヒカルの碁』の名シーン
「どこをさがしてもいなかった佐為が…」のシーンの様な感動を覚えます

そして、私は物語の都合で『死んだ(と思っていた)人間が蘇る』という設定が大嫌いです
人は死んだら生き返りません
その共通認識が共有出来ないのであれば、その世界観に没頭は出来ません
ただ、ドラゴンクエストという世界観は、現実で言う所のキリスト教系の宗教観が盛り込まれている事は周知の事実で、毎作、教会が出てきています
(だからこそ、教会に対する解釈の違いでドラクエの海外評価が低いと聞きます)
そして、キリスト教の宗教観では、死んだ人物が生き返るという事は聖書にも書かれている『起こり得る奇跡』です
イエス・キリストの復活や、世界の終末に人々が復活し天国へ行くのか地獄へ行くのかという裁判が行われるとされています(最後の審判・エホバの証人など)
ですが、ドラクエ5では死んだ者は生き返りません(石像にされた後に元には戻ります)
それに比べ、ドラクエ4ではロザリーとシンシアが復活します
また、ドラクエ5では『決して人に懐く事はありえない』とされるキラーパンサーがアベル(ドラクエ5の主人公の公式な名前)に幼少期に守られたという過去があったからこそ、青年になったアベルにも懐いているというストーリーになっています
それに比べ、ドラクエ8では『キラーパンサー友の会』なるものが設立されており、あまつさえ乗り物に出来る様になっております
ドラクエ5の時には『地獄の殺し屋』とまで呼ばれ決して人に懐く事は無いとされていたキラーパンサーがドラクエ8では、ただの乗り物扱いです
そんな風に簡単に人に懐くモンスターなのであったら、アベルとボロンゴ(キラーパンサーの名前)の関係性の特別さが著しく低下します
アベルはグランバニアの王パパスと、エルヘブンの民の中でも長老達をも凌ぐ能力を受け継いでいる母マーサとの間に生まれました
エルヘブンの民の能力というのが、魔界の門の開閉や、魔物と心を通わせる事が出来る能力なのです
つまり、アベルが『決して人に懐く事はありえない』と言われる、地獄の殺し屋キラーパンサー(の子供とは言え)と心を通わせる事が出来たのは、母マーサの血と能力を受け継いでいるおかげなのです
アベルのおかげで、ボロンゴはエルヘブンの民の血を持たないビアンカにも懐いたし、その後アベルと10年以上離れ離れになった時も、決して人を襲わなかったのです(その代わり畑を荒らしていましたが、どう見ても肉食動物であるキラーパンサーが畑で作物を荒らして何がしたかったのかは不明)
もちろん、後付けの説明で『実はラパン(キラーパンサー友の会会長)とバウムレンの間に特別な絆があって(ラパンがエルヘブンの民の末裔だったとか)友の会で飼われているキラーパンサー達は皆、バウムレンの子孫達だから他の人間にも懐いていた』など、幾らでもお話は作る事が出来ます
ですが、だからこそ
だったら何も、懐くモンスターがキラーパンサーである理由がありません
その他のモンスターでも別に良かったはずなのです
穿った見方をすれば、ドラクエ5で培ったビビンバ人気に肖りたかっただけと考える事が出来ます
そんな商売気を見せられては、ドラクエ8だけに留まらず、ドラクエ5の評価まで下がらざるを得ません
この他にも、ドラクエ6では『ダーマ神殿』というシステムがあり、特定の条件を満たせば(複数の職を転々とすれば)パーティ内の誰でも『勇者』になれるという転職システムとなっており、それ以前までの『血筋』の物語から一変させてしまっています
誰でも勇者になれるという事は、勇者が特別ではないという事です
勇者を特別視しないのであれば、ドラゴンクエストという作品時代の否定に他ならないと私は考えます
ドラクエ4以前までは勇者が勇者らしく世界を救うお話でした
ドラクエ6は勇者という職業が特別な職では無く、たまたま世界を救った人間が勇者(に就いた事がある)だったというお話でした
それに比べドラクエ5は、アベルは父パパスと同様に『自分が勇者でない』事に、深い悲しみ悔しさを感じつつ(道中10年間もの奴隷生活を挟んでも)、それを乗り越え、それでも世界を救う為に奮闘した先に、自分の子供が勇者である事が判明し、それでも自暴自棄になって息子に全て投げ出すでもなく、自ら世界を救う旅に出る
という美しいストーリーであり、それを私が美しいと感じる事が、私がドラクエ5を愛する理由かと思います